坪生地内には、多くの農業用ため池がある。その中で、川原山池、
滑池に次いで三番目の大きさを誇る天満池が、築造(約百五十年前)以来初めてという大改修中である。
公有水面(池の広さ)一町歩、受益面積(受益水田の広さ)十町歩という同池は、
堤防の全周が二八〇メートル。堤の基礎(幅三メートル)から高さ二メートルを、
コンクリートブロックで固めるという大工事で、昭和六十一年から四ヵ年計画、
総工費五,二五二万円(国五〇%、県市補助五〇%)。
今の時期は満々と水を湛えているが、
取り入れが終わる十月から四たび目の池干しが始まり工事再開、来年の三月で完成する。
一方、昨年十一月初めから今年二月末の四ヵ月間、坪生最大の川原山池、
それに坪生小学校南側の新池の元樋の改修が行なわれ、双方とも池底を見せた。
田植え時期、水の中にはいり込んで水を抜いていた方式から、
ハンドルで巻き上げて水量を調節できる斜樋に改修、しめて四〇〇万円とか。
池ざらえと称して、何年かごとに、池の水を僅かに残してコイ、フナ、
ドジョウを追いかける光景が見れなくなって久しい。
代表的な三つの池が干されながら、タンパク源としての魚獲が話題にのぼらないのも、
時代のせいだろうか。
四月二十一日夕、東池平の上土居山を包んだ炎は、西池平・上竹田の山へも飛び火し、
山すその何軒かでは家財を運び出すなど、恐怖のひとときであった。
「乾燥注意報」下での、宅造業者による無謀な伐採焼却が出火原因だが、
すばやい通報と消火活動に拘わらず、炎は尾根まで一気に燃え上がり、出動した消防本部、
消防団員は計四四五人というから、坪生にとっては、
かつてない規模となった(焼失面積は約七町歩とか)。
何しろ荒れるに任せた最近の山である。枯木のくすぶりなどが続き、地元消防団による放水は、
午前二時半まで続けられたという。ほんとうに、ごくろうさまでした。
最盛期の昭和三十年ごろ、坪生地内で一三〇戸が携わっていたタバコ耕作者が、
とうとうゼロになった。
昨年十月の収納を最後に、ただ一人になっていた江戸野の掛谷進さん(七三)は、
「昭和二十三年に、醤油生産からタバコ耕作に切り換えてから、ちょうど四十年間。
五反五畝から始めて、最後は三反三畝でした。輸入タバコや外国産葉原料の増で値下がりに加え、
減反政策、立ち枯れ病など、もう止め時です」と話される。
タバコといえば、六月中旬〜八月上旬が乾燥、調理・選別ののち十月上旬〜十一月が収納期。
石油バーナーによる自動乾燥装置になるまでは、
薪・コークスによる過酷な作業がつきものであった。
陶山小学校、金浦中学校で計三十二年間の教職、さらに六年間は笠岡幼稚園長として、
教職畑一筋に勤めてこられた藤原 正さん(八〇)が、昨年秋、勲六等宝冠章を受賞された。
年の教育分野への情熱・献身が、評価されたわけである。
昨年十二月四日(日)、公民館で開かれた受章祝賀会には、
坪生内外から百五十人という大勢の参加者があり、教職のみならず、婦人会長(八年)、
老人会長(五年)、郷土史研究幹事(発足以来)など、坪生の地に残された足跡の大きさを窺わせた。
(当日寄せられた、祝い歌)
八十路にて未だも深く学ばむとしたもふ故に君は輝く 道子
このところ、坪生の地での報告集、冊子の出版が相次いでいる。
その一つは、桑田卓人氏による『坪生土地区画整理事業の記録』。
昭和三十八年の日本鋼管(株)福山製鉄所起工に始まる坪生の激動を、
区画整理審議委員としての諸資料をもとに、今日までの過程を、
氏の立ち場から克明にまとめた貴重なもの。自費出版で、関係者に配られた。
B5版219ページ。
その二は、当研究会によるガイドブック『坪生たずね歩き』。A5版50ページである。
活字を大きくし、ハンディタイプにした分、改訂版ながら好評を得て、
一,五〇〇部と遠慮したためか、残部すでに僅少となった。五〇〇円。
その三は、『語りつぐ戦争 ― 平和への轍』。
軍恩連坪生分会の世話役が発刊発起人の中心となり、八ヵ月がかりで仕上げた。
B5版191ページ。文集32編、従軍帰還者101人、戦死者67人の全記録を収録した画期的な冊子として、
新聞各紙でも一斉に取り上げられ、三,〇〇〇円と高価ながら、残部僅少とか。