三世代交流ゲートボール大会は、学区子ども会育成協議会の主催で6月21日、
12チームが集まって坪生小グランドで開かれる。
この原動力につながるのが、学区内五地区のゲートボールチームのメンバーである。
紹介してみると、学区内で最初に結成した「坪生チーム」は、現在一〇人、
代表は昭和六〇年以来、神原稔さんがつとめる。
鶴ヶ丘地区のチーム名は「わかば会」。代表は坂本貫治さんで、会員七人。
川原山地区は「友寿会」と称し、会員一六人は学区最多。代表は柴田真一さん。
大門団地が「二ツ葉会」と呼び、代表は井上郁雄さんで、会員一四人。
青葉台には「松葉会」チームが九人を擁し、代表は穴井正さん。
厳しいルールに加え、頭脳的な試合展開を要求されるのが、ゲートボールである。
若い衆も見習わにゃア。
中国大陸から日本に稲作が伝わったのは、
縄文時代晩期から弥生時代にかけて(BC三〇〇〜AD二〇〇)である。その頃のお米を、赤米と呼ぶ。
表皮が赤く、稲穂の段階でも、現在の改良型イネとは歴然と色別できる。
この古代米が、坪生の地に復活した。
朝日新聞の記事を見て便りを出し、
福島県いわき市のお米研究家・佐藤守利さんからいただいた種もみを、
東池平の掛谷常雄さんが育成栽培してくれたもので、二年目の昨秋の収穫で、
郷土史研究会例会での試食会も実現した。
普通品種と同時に植えたのに、赤米の生育がうんと早かったため、スズメに集中的にやられ、
課題はスズメ対策のようである。
今秋の学区文化祭では、江戸野の手づくりコンニャクと並んで、
赤米による古代食メニューが、披露できそうである。
昨年の十月一日、坪生の中心地に『西井内科医院』(西井次治院長=四四)が開設された。
土居石油のガソリンスタンド向かい地(約三九〇坪)に、ゆったりスペースの駐車場を備えて、
地元はもちろん、篠坂(笠岡市)、稲木(井原市)方面の利用者にも喜ばれている。
診察時間は午前八時半から午後六時半まで。内科・胃腸科・放射線科・理学診療科と、
レパートリーは広い。
昭和六十一年一月に、『高見医院』の高見信三医師が故人となられて以来の、
無医村£n区からの脱皮である。
新春を迎えた一月十四日午前、東池平地区の田んぼの中に、
高さ15メートル、鳥居まで飾りつけた、巨大なとんどが出現した。
掛谷常雄さんの呼びかけで同地区の有志七人が、青竹、わらを持ち寄り、
午前中かかっての共同作業による作品である。
左義長と呼ばれる福山城下のとんどまつりをしのぐ大きさで、近所の人たちはこれを見て、
しめなわや古いおふだを持ち寄り、飾りつけのにぎやかなこと。
午後四時前に火が放たれ、見守る人たちの歓声があがった。ひとしきり炎があがったあと、
竹の先におモチをはさんで焼く人たちが次第に増え、懐かしいお正月風景をかもし出していた。
なおこの様子は、RCCラジオでも繰り返し報道されていた。
懸案であった神森神社の屋根改修が、年明け早々から始まった。
石の鳥居をくぐって石段を少し上がった所の随身門、
そして正面でかしわ手を打ち礼拝する拝殿、それに本殿への階段のある昇り殿の三ヵ所は、
三月末で終了(この費用、しめて四三〇万円とか)。愈々次の課題、本殿を残すのみとなった。
「全面改築、それも鉄筋コンクリートでエエがァ」
「とんでもにゃァ、桃山時代の様式をそこらじゅうに残しとる古建築を、
壊してどうするんにゃ。香椎造りの特徴をようわかるように、元の形に復元するのが、
現在に生きるわしらのつとめじゃろう」
忌憚のない議論が、いま迫られている。
毎週水曜日と土曜日、今や坪生の名物となった夕ぐれ市は、
三月十日で一周年を迎え、一〇二回目の開店を達成した。
当日は、福山市農協坪生支店と、同あとつぎ会坪生支部(掛谷賢次代表、十八人)の協力を得て、
コンニャクづくりの実演販売、焼きとり、ポン菓子、バナナの叩き売りなど多彩な演出に、
かつてない大にぎわいであった。
なお、七月四日(土)には、初めての試みで、「夕ぐれ市に続いて、
夜店もやってみたい」(同事務局猪原敏秀さんの話)とのこと。
あとつぎ会の薄水色のユニフォームが、何とも頼もしく見えるのである。
三月十三日昼前、恒例となった坪生小学校三年生(4クラス120人)による史跡巡りの一行は、
石州往来をたどりながら石ウスの並ぶ桑田宣政さん宅前で小休憩。ガイド役は、
石ウス二五〇個の由来とかつての使用法などを話し、さて出発の時点で、
「ちょっと失礼」と、のぞいた納屋の様子にびっくり。
かつて雑然と並べてあった民具などが、棚も作り替えて実に整然と並べられ、
民具収蔵展示場の様相である。これはすごい、と直感、留守のところを失礼とばかり、
小学生全員を案内した。
「わぁッ、すごい」「これナニッ」――昼前になり、疲れの見え始めた子ども達が、
歓声をあげ目を輝かせた。
失われつつある歴史的民具史料を、かくまで収集・整理される桑田さんに、
子どもたちのみならず、研究会一同も、脱帽である。
備後地方のコンニャク産地といえば、神石郡・世羅郡など中国山地というイメージが強いが、
坪生町江戸野地区では、数年前から、数戸が呼びかけあってコンニャクづくりが盛んである。
公民館長の掛谷忠義さんが、育て始めたコンニャクいもがきっかけで、今では七軒に広がり、
平成三年には、コンニャクづくりは五回に及んだとか。
四月に植え付け、十一月初めに掘る。以後正月をはさんでの、楽しい共同作業となる。
大鍋をかけた移動式かまどで、たきぎを燃やす人。コンニャクいもの皮をむく人。
茹で上がったいもをミキサーでつぶす人。ミキサーでつぶしたペースト状のものに、
調合した無水炭酸ソーダを入れ、混ぜ合わせる人。暫くして、
それを鍋の熱湯に丸めて放り込む人――こうして20〜30分煮て、出来上がりである。
ひと息つくと、「コンニャクの刺し身にゃァ、酢みそが一番じゃのー」など、
わいわい言いながら、酒宴が始まる。
3キロのいもで、一斗缶にいっぱいのコンニャクができる。近所へのふるまい、
或いは出身者への ふるさとの味宅急便≠ニなるのである。
春先になると、芦田側周辺でのバード・ウォッチングが、新聞紙面に紹介される。
三脚に取り付けた双眼鏡にカメラ、というのがおなじみのスタイルで、
要するに探鳥観察である。
坪生町内の滑池(西楽寺南上)は、水鳥の楽園である。三月下旬ごろには、
カモ類100羽近くが、群れをなして泳いでいた。ことさらに観察者の姿も見えない方が、
鳥たちにとっても、居心地が良いに違いない。
さて、いつまで続くか、野鳥たちにとってのこの楽園。滑池の南側は、
宅地開発のための造成計画が、すでに市に出されているとか。
つぼう郷土史研究会の創立10周年の記念事業第一弾として、昨年七月に発行した写真集は、
予算の関係で五〇〇部という控えめな発行部数に加え、
広島県文化振興基金からの助成を受けての事業のため「非売品」に限定され、
音無しの構えのまま、早々と品切れとなった。
今年度は、義倉財団への助成申請の主事業に、写真集の再版をあげた。
受理されれば、年内再版(二〇〇部の予定)が可能なのだが…。