もう十五年も続いている、青年団のOBによる雑煮接待の効果が、いま見事に開花。
ここ数年の大みそかの神森さんは、押すな押すなの大盛況である。
西楽寺の除夜の鐘が鳴り始める頃から、神森さんの石段は行列の人で、
いちばん下の鳥居辺りから動かないほど。恐れをなして帰る人も出る始末である。
『坪生わかもの会』(仮称・掛谷宗平代表)の話では、「八百人分用意したんですが、
一時間ほどできれいさっぱり無くなりました。でも、これ位がボクらの限界です」
と晴ればれとした表情。
寄せられた金一封は、必要材料費を差し引いて、あとはきれいさっぱり神森さまにお供えして、
残金は常にゼロ。これが慣わしという、爽やかさがすばらしい。
賽銭箱に、山盛りになったおさい銭が、その盛況ぶりを示していた。
平成四年九月二十七日、伝承古代来の刈り取りが、賑やかに行なわれた。
賑やかな筈で、郷土史研究会会員総出の四十人近くが、鎌を持って、倒れた稲、
しかもカヤのようにゴワゴワして太くて長いイネを相手に、悪戦苦闘。
約一時間余りで四アールほどの田から、百二十キロ余りの赤米を収穫した。
訪れた取材陣のカメラは、掛谷眺さんや桑田太三さんなど、
スタイルも手つきも現役そのものの本格派に向けられ、翌日の各紙の紙面写真でも、
主役をつとめていた。
平成五年三月二十六日から始まった、『第七回花と緑の祭典(新涯町・県立福山産業会館)
生産者の部』で、坪生町井ノ木の川高逸弥さん(三九)が、みごと金賞を射止めた。
いわばプロの集まりの中での、トップを得たというわけ。
同氏は十八年前に独立して、ラン(蘭)の栽培出荷に取り組み、現在では二万鉢を栽培。
年間五千から七千鉢を出荷するという。ご本人は、「設備投資に次々とかかり、
採算が取れだしたのはここ二、三年というところです」と控えめだが、
夏場の栽培避暑地として豊松、仙養ケ原にハウスを持ち、福山はもちろん、広島、姫路、
大阪まで出荷するという行動範囲の広さを誇っている。
なお同氏は、平成三年から坪生小学校のPTA会長も務める、頑張りやさんである。
坪生名物『夕ぐれ市』は、平成五年三月二十日に、満二周年二〇〇回目記念売り出しをした。
朝九時から午後三時までだったが、品物は昼ごろには、殆んど売り切れという勢い。
農協あとつぎ会の若者による、ヤキトリ、オモチャ、鉢植えものの屋台。
江戸野のコンニャクに加え、衣料品店、天満屋酒店の出店や、
向島からミカン九十キロもやって来て、何事かというほどの大賑わい。
なかでも、新作の古代モチ(一升のモチ米に、伝承古代米の黒米を五勺ほど混ぜて搗く)
が大好評で、この日も一斗分のモチ、やや小さめ三個入り一〇〇円が、飛ぶように売れていた。
坪生と浦上との境界にある、厳島神社境内。金毘羅大権現の常夜灯石塔東隣りに、
自然石に「交通安全祈願」と彫り込まれた石塔が建立された。
平成四年九月末日、坪生交通安全自治会(掛谷節夫会長)によるもので、碑裏面には、
同会役員二十七人の名が刻まれている。
掛谷節夫会長の話によると、北木島の平山石材による制作で、費用はしめて百万円。
三年ぐらい前から計画を練り、役員で費用積み立てをしてきたという周到さ。
一般への寄附は訴えなかったので、建立の新聞記事を見て知った者も多かったようである。
眼下を見下ろす位置から、往くクルマ・人々の交通安全を願っていらっしゃる。
心したいものである。
今は使われなくなった生活用具の散逸を心配して、郷土史研究会では、五年ほど前、
町内各家を訪ねてその保存状況を調査、『歴史的民具資料調査カード』約一〇〇枚に分類整理した。
その中に、一点も発見できなかった木製水グルマが、このほど収集できた。
『ロマンチック街道313』提唱者の、高橋孝一さんの紹介から、
大門町4丁目11の藤井寛治さん宅を訪ね、納屋2階に保存されていたものを頂戴した次第。
「祖父の浅七が昭和十七、八年頃、府中の人に作ってもろうたように聞いとります」
と藤井さんの話である。
大量生産ではない時代のこと、
注文を聞いてコツコツと仕上げたに違いない移動式の木製水ぐるまは、
工芸品と呼ぶにふさわしい雰囲気を持つ。どこに展示するか、うれしい悩みである。
資料館建設を願ってきたわが研究会は、平成五年三月末、市に初の陳情書を提出した。
相手は市長と教育長。
昨年春に新装成った高層庁舎の五階、助役室応接間で待つこと30分。
午前九時ごろ、助役、教育長、管財部長が顔を見せ、当方は会長以下五名。
四〇〇人近くにふえた賛助会員に支えられ、毎月の例会を欠かさず、
地域に深く根づいた私たちの活動が、どこまで理解してもらえたろうか。
朝の出勤時間に遭遇し、雑観。
高級ホテル並みの景観となった、市庁舎。職場に急ぐ市職員の背すじも心なしか伸び、
かつてのふんいきとエライ違いである。しかし、男性の歩きタバコがイヤに目立ち、
やっぱり田舎の役場風景といったところか。
「すしゅん天皇陵をご案内しましょう」
「エーッ、天皇陵へ入れるんですか」「いえ、宮内庁はそうは言ってません。
参考陵として、いわば放置されていますが、実は学者間では崇峻天皇陵に違いないと言っています。
もっとも、あんまり訪ねる人はいませんが」
「ぜひ、ぜひとも」
国立飛鳥資料館の学芸員A氏は、地下一階の研修室での説明を終えると、懐中電燈二個を携え、
「さ、行きましょ」と、身軽に私たちのバスに同乗。あとは、「あ、そこを曲がって」
「もうぼつぼつです」「あ、ここらあたりにバスを停めておいていいでしょう」と、
まるで庭先感覚である。
「ここです」
こんもりと盛り上がった斜面に、大きな石が一個見え、その下に小さな穴がポッカリあいている。
とても人間が入れるとは思えない。
「では、お先に」
あれっという間に、うしろ向きになって足の方からスルスルともぐり込んでしまわれた。
あとは好奇心と群集心理で恐怖心をふり払い、お先に、お先に、
と結局十五人全員があとに続いた。
カエル歩きというのか、腰を思い切り低くして、
両手両足を突っぱってのうしろ歩きで約三メートル。やっと頭が上げられる所まで来て見回わすと、
懐中電燈の明かりの筋に、モワーッとホコリが浮いて、その向こうに巨大な石組みが見え、
すなわち古墳内部であった。
学芸員氏の声もうわの空で、「すごいな、すごいな」とつぶやきながらカメラのシャッターを押し、
盗掘されて空っぽになっている石棺の中に目をこらす。
地中にしつららえられた古代の住居、しかも死者のための、である。全くゴメンナサイ、
であり、よくぞ残されていた、である。
そして、だんだんこわくなってきた。自信に満ちた引率に導かれ、集団なればこその探訪である。
「だれにも、このことは教えんとこな」と、軽口を叩きながら、古代の森をあとにした。
平成4年12月2日のことである。
さて、宮内庁管轄の天皇陵は、考古学者ですら墳丘内への立ち入りを禁止している。
正面に鳥居を立てた所が多いが、これらの多くは明治維新前後の、尊王攘夷国威発揚の聖域造形で、
謎の多い古墳時代解明の道を頑なに閉ざしている。
あの巨大な古墳『仁徳天皇陵』(大阪府堺市)を調査した大林組のプロジェクトチームは、
古代工法だと延べ六百八十一万人、十五年八ヵ月、総費用七九七億円を要したと推算した。
国民的遺産といわれるゆえんは、ここにある。