「坪生学区内をサクラの花で彩りたい」平成七年の研究会年度総会で初めて提起、
植樹時期の同年秋に、その第一歩を踏み出した。
苗木は、都市緑化対策の一環として、さまざまな樹木の苗木を無償提供している
福山市都市部公園緑地課に書類申請、十一月十一日、
一文字町の市育苗センターへ受け取りに行った。
提供を受ける基準は、公共用地への植樹、一団体三十本以内と決められており、
学区内植樹運動の第一弾として、ソメイヨシノ三十本の提供を受けたもの。
坪生でサクラといえば、西池平・江戸野・西楽寺が挙げられるが、名所というには、
まだまだ。このたびの三十本は、ほんの手始め。毎年コツコツと、本数を増やしていきたい。
毎年十一月の学区文化祭。つぼう郷土史研究会は毎年、
小学校二階の給食室を開放していただき、協賛出展している。
平成七年の会場前フロアに、大きな茶色の壷がデーンと置かれた。
持ち込んだのは、掛谷敏男さん(68才=賛助会員、伊勢丘在住)と、
吉本知司さん(68才=会員、中山在住)。
両氏は、昭和九年、坪生小学校に入学。同十七年に卒業した同窓生である。
昭和十七年、当時の同級生三十五、六人が、卒業記念になにかを残そうと相談、
講堂に飾る大壷を求めることにした。
松かさを拾って買ってもらったりしてためたお小遣いを出し合って、
集めた三円だったか五円だったかを握って、男子生徒何人かでリヤカーを曳いて、
皿山の藤本陶津さんの窯場を訪ね、本人から手渡されたのが、この大壷である。
花木を生けたりして、式典の時など必ず登場していたが、いつの頃からか仕舞い込まれ、
子どもたちの前に登場する機会もなくなっていた。
七、八年前の同窓会で、「わしらの寄贈した壷が学校にある筈じゃがのう」
と話が出たのがきっかけで、冒頭のお二人が学校と掛け合って、 発見=B
校長先生の理解を得て、坪生小学校の郷土資料室に移されることになったもの。
大壷の回わりには、五十五年ぶりの感触を懐かしむ当時の関係者で、人の輪が出来ていた。
平成七年の夏、神森神社が差し押さえの危機に晒された。
旧坪生小学校の、建物敷地及び運動場用地に対する固定資産税が、
平成三年分から未納になっていることに対する、執行予告令状である。
貸借関係にある製菓会社が支払い義務者であるが、市税課から見ると、
神森神社が滞納したということになったわけ。
結局その時は、同社が一時金を納入、あとを月割りで支払うことで一件落着。
総代一同、胸を撫でおろした。
神森神社の総代は、十五人。その中から責任役員五人を選んでいる。
筆頭総代は、五人の中から、大祭の当番組の総代に年々交替してきた。
筆頭総代の一年交替制に、このところ反省の声が高まっている。
また、差し押さえの一件以来、弁護士を通じての交渉に奔走した新任総代の掛谷常雄さんが、
責任総代に加えられ、六人体制で、現在は賃借関係そのものの解消に向けて、チエを絞っている。
なお、旧坪生小学校の校舎建物は、「契約時点で製菓会社が買取り、
出る時は更地にする」との契約になっている。現在の評価では、
あの建物を撤去するには一,五〇〇万円は必要という。
すなわち 建物を壊す≠ニいう前提である。その一,五〇〇万円をかけて補強修復して、
活用出来ないか。
同校舎で学んだ多くの人たちの力を結集して、募金活動ができないか。
そのあと、いま駐車場の狭さに困っている公民館を、いっそあそこに移し、
一大コミュニィティー・センターにする。市に買い上げて貰うのが前提である。
中途半端な元幼稚園舎の利用は、もちろんヤメである。
旧校舎は、ふるさとの象徴として地元に活用される日を、今や遅しと待っている。
昭和十年代の地図を注意深く見ると、井桁印で、井戸の存在が記されている。
井ノ木の桑田憲武さんは、「坪生には、あまり深こうのうて涸れたことがない、
川のつく井戸が五つあったと聞いとります」とおっしゃる。
それによると、東から、(1)林みせの裏のたわ川(2)憲武さん方の塀際のしも川
(3)西楽寺下の亀井川(4)狐原・やなぎの裏の清水川(5)江戸野・不思議の水辺りの寄せ田川が、それ。
干天が続いても、決して涸れることのない井戸は、実に貴重であった。
平成七年秋、東池平の掛谷宗平さんが、地下水を生活用水にと一念発起。
府中市広谷のボーリング業者に依頼、15センチ口径のステンレスパイプで
ボーリングを始めてもらった。
一〇〇メートル地点で水が豊富に出たが、水質に満足せず、さらに掘り進めてもらい、
結局二〇二メートル地点まで掘り下げた。そのあたい、な、な、なんと四二〇万円。
一メートル二万円である。
飲ませていただいたが、水温16度とか、やわらかーい、クセの全くない、
そう地球の味とでも言うのか。いつまでも変質しないというのが、また不思議である。
当家では、深さ七メートル位の昔の井戸は、雨が降ると濁るので、
水道が敷設されてからはハウスの用水としてしか使っていなかった。
いま、飲料水はもちろん、炊事洗濯風呂など、生活用水のすべてを賄い、湧く水に、
一家で心を和ませている。
長年続いている神森神社での、大晦日のお雑煮接待。神社の石段は、
下の鳥居まで列ができ、お賽銭箱は小銭が山盛りになるという。
一方、お盆月の八月十七日夜、西楽寺では屋台が並ぶ。
かき氷ポップコーン田楽ふうせん釣り缶ビールなどの接待に、家族連れが集い、
静かな お盆さま≠ノ、活気を添えている。
これらを取り仕切るのが、『坪生若もの会』(掛谷宗平代表)。
農協あとつぎ会、消防団、旧青年団OBの三者からなり、
約四〇人の若ものたちが、準備から後片付けまで、実にてきぱきとこなす。
道具もかなり揃った様子で、買い出し、仕込みなど、鮮やかな役割分担である。
「会社勤めの人ばかりになり、青年団はとっくの昔になくなった。
若者たちはバラバラになってしもうた」と嘆く向きもあるが、坪生の場合はとんでもない。
ひと声四〇人とは、なんとも頼もしい。親孝行集団の、若者パワーではないか。
因みに、農協あとつぎ会坪生支部は、会員が三十四人おり、現在の代表は、
井ノ木の川高逸弥さん。福山全体では二〇〇人近い会員がおり、
坪生・箕島・川口・熊野が主力であるという。交流会や収穫感謝祭、福山ばら祭りなどで、
屋台の腕を磨いているのである。
坪生の真ん中、大塚の丘の上、『福山ロイヤル・テニスクラブ』が、いま賑わっている。
冬の間も、時折りナイターが点灯している位だから、春になってからの日中は、
もう平日でもママさん達でいっぱいである。
ここでインストラクターを勤める金島和司さん(26)は、博人さんの長男。
テニスで有名な佐賀県の柳川高校に進み、日本体育大学と、テニス一筋を歩んできた。
ご両親の勧めと、あとつぎの責任を感じて、3年前Uターンしてきた優れ者。
現在のコート四面ではあきたらず、「あと二面はほしい」と、意欲もいっぱいである。
「彼は、県内でも屈指の選手」との外評判通り、
昨年はナンバー4で出場のチャンスを逃がした国体出場を、「今年はぜっぴ」と目指している。
大津野小学校を基盤にして、空手道を指導しているのは、
金尾良文さん(46=井ノ木)、四段。
福山東郵便局に勤務の傍ら、『国際千唐流空手道連盟福山支部』の代表を勤め、
同校体育館で週2回、夜間練習に励み、指導に当たっている。社会人を含め、
現在会員が60人。熊本に本部があり、アメリカ、オーストラリア、カナダに支部を持ち、
4年に一回、国際大会に出掛けている。知る人ぞ知る、武道家である。
『坪生剣友会』で、二十年近く少年剣士を指導する神原育雄さん(48=葉座)は、
なんと教士七段。NKK勤務で、同社剣道部の監督を勤める傍らの、永年指導である。
坪生剣友会は、現在30人位が、週2回、体育館で汗を流している。
坪生の剣道熱は、戦前からのものだが、教士七段というのは、これまで最高の段位者ではないか。
やはり武道の一角、弓道で精進しているのは、西楽寺住職(56)。
十五年前に発足した福山市弓道連盟も、高校・大学生を含め、
愛好者百七〇人を擁する大きな団体となり、いま、その事務局長を勤めている。
平成元年に新設された竹ケ端の市弓道場で、週3回夜間練習の指導に当たっている。
自身は、現在五段。昨年あたりから、上の錬士と六段を目指し、九州や四国、
近畿まで足を伸ばしてチャレンジしている。
スピード時代、逆に、ゆったりとした動きが、また、礼に始まり礼に終わる弓道が、
注目されているのかも知れない。
平成七年十月十九日付け中国新聞スポーツ面トップに、
福島国体で岡山就実高校の優勝を伝える活字が踊っていた。
『就実初V、高校二冠 バレーボール少年女子』
12センチ角の大きな写真、真ん中あたりにいる背番号(6)のお嬢さんが、
坪生町峠の桑田宣政・倫子さんご夫妻の三人きょうだい一番下の理恵さん(18)。
インターハイに続く、国体優勝という快挙を成し遂げた瞬間の写真である。
理恵さんは、姉兄に誘われて坪生小学校の一年生の時からバレーボール部に入り、
就実中学校時代には、全国大会に3回出場している。
すぐ上の兄・猛さん(21)は、今や全国区の神辺旭高校バレーボール部で活躍し、
現在NKK福山製鉄所勤務。実業団九人制バレーボールで全国大会に3回出場した。
長女の千景さん(22)は、明王台高校バレーボール部を経て、
現在福山歯科医師会勤務。坪生小学校のママさんバレーボールチーム『坪生ウイングス』
の主力である。
坪生小学校の体育館で鍛えられたきょうだい三人が、揃って、
それぞれのチームの主力選手というのも頼もしい。
坪生たずね歩きは、坪生小3年生の毎年のテーマになるなど、すっかり定着した感がある。
郷土史研究会の会員がガイドになってぞろぞろ歩く、いわば史跡巡り感覚に対し、
時間差オリエンテーリング≠ニも言うべき、『追跡ハイク』という新しい歩きがあった。
平成八年一月二十八日、午前10時に公民館に集まった約三〇人。半数は、小学生である。
この日のリーダーは、『レクリエーション指導員2級』の資格を持つ、
井堀九州男さん(47=峠在住、NKK勤務)。
同氏のレクを受けた後、一行は、四、五人でグループを組んで、
3分おきに公民館を出発。神森神社―旧坪生小校舎―江戸野のムクの木―江戸野の荒神さん
―西楽寺―石州往来―公民館のコースを1時間20分位かけて、全員がクリアした。
この追跡ハイク。何も持たずに、紙に書いてある指示通りにポイントを、楽しみながら、ゆっくりたずね歩くというのが基本。所要時間を最初は秘密にしておき、標準設定時間に、いかに近いかを競うもの。
井堀さんの話では、オリエンテーリングというのは、地図と磁石を持って、
地図を読みながらポイントをクリアし、しかも時間を競うもの。郊外型である。
これに対しウオークラリーというのは、街中などで行なわれることが多く、
「○○タバコ店の角を右に曲がり、○○に向かえ」などと書かれた指示に基づいて、
ポイントを通過して目的地に向かう、早さと正確さを競うゲームである。なるほど…。
昨年九月から始まった滑池南側の造成工事は、つぼうたずね歩きの人たちに、
一様のショックを与えている。
「ここまでやるか」
「さすがは住総、一本の木も残さんのー」
「完膚なきまでにやられました。近代科学の凄さと怖さを、
目の当たりに見させていただいております。牧歌的風景を当たり前に思って過ごして来たあの頃が、
すごく大切に思えます」
「これ、坪生の発展でのうて、どう見ても私利私欲の発展じゃのー。
取り返しのつかんこと、しょうるように思えるがのー」
丘の部分、谷の部分の地形を生かしながら、もちろん緑もたっぷり残してという期待は、
全くの当て外れ。
野鳥が何百羽と飛来して憩っていた池の水辺には、コンクリートの巨大な壁が突き立ち、
三つあった谷の部分もすべて更地にならされている。
区分分けされた家数三五二戸。公園が三ヵ所配置されているのが、
辛うじての自前の緑予定地である。
なお、同地の突端あたりの水辺、約八〇〇平米の部分について、
古代の窯跡が確認されているが、今回の開発区画から除外され、
したがって本格調査もされなかった。
この部分、市の砂揚げ場を除く個人所有地(約五〇〇平米、吉本軒一郎さん)について、
開発業者を通じて、市教委文化課に対して「寄贈したい」意向が伝えられ、
一縷の光明が差し込み始めた。