6月12日付け山陽新聞は、岡山県内の高校女子長距離界を展望した特集記事で、
「新生興譲館が台頭」と題して、特集記事を全県版に掲載した。
使った写真が、6月5日の県高校総体陸上女子三千mレースだが、
トップ集団に興譲館高校の一年生3人が占めるという象徴的なもの。
そう、昨年12月13日、滋賀県野州町で行なわれた第六回全国中学校駅伝大会女子の部で、
わが東朋中学がみごと六位に入賞。その時のアンカー猪原由紀さんのカラー写真が印象的であった。
その時のメンバー5人が、ごっそり井原市の興譲館高校陸上部に引き抜かれ、
早くも注目を浴びているという次第である。東朋中出身の五人組は、以下の通り。
猪原由紀(坪生町)、田上陽子(坪生町)、服部雅子(青葉台)、浦田江身子(幕山台)、小川綾子(幕山台)
労働省が昭和42年から始めた『卓越した技能者(現代の名工)』は。
今年で33回目を迎え、毎年、全国から百五十人、県内では四人が選ばれている。
昨年末、平成十年度の名工に、わが研究会員の森川和彦さん(60)がみごと選ばれた。
同氏は、NKK福山製鉄所の計量管理担当主任で、所属はプロセス制御部銑鋼制御室。
昭和36年にNKKに入社。川崎工場に四年、その後はずっと福山工場勤務である。
功績の概要は、「長年に亘り計量管理業務、及び放射線管理業務を担当し、
特に計量管理工として計量管理体制の推進、及び放射線安全管理に大きく貢献した」というもの。
入社以来36年。原料の鉄鉱石や鋼材の質量計、炉の温度計や圧力計、
鉄の厚さの測定に使うセシウムなどの管理業務一筋を歩いてこられた。
和彦さんは、「所内約七千個の計量機器が正確に作動するよう、
整備方法の体系化などに努めるという、裏方の仕事が評価されたものと、
ありがたく受け止めています」と、いい笑顔で喜んでいらっしゃる。
表彰式は昨年の11月19日、東京・虎ノ門のホテル・パストラルで行なわれ、
夫婦同伴で上京された。
今年三月に定年を迎えられ、さてこれから、奥さまともども悠々自適という時の五月一日、
比佐子夫人(58)が急逝されたことは、誠に痛ましい。哀悼・合掌。
「町通りのおコメはおいしいんど〜」とは、よく聞く内緒話だが、坪生町東池平町通りに、
金尾富士子さんが切り盛りする喫茶店『デラ』がある。
店内に一歩入ると、様々な写真パネルが目を楽しませてくれる。
つぼう郷土史研究会発刊の小冊子も一通り置いてあり、恐縮する。
店主富士子さんは、七年くらい前からカメラにのめり込み、「店休日の日曜日は、
ウチに居たことがありません」と、笑い飛ばす元気者である。
一年程前から、ご主人の広士さん(48)も負けじとカメラを手にするようになり、
今年六月の市美展では、山口県の常盤公園でシャッターを押した『お猿さん』を初出展、
みごと努力賞に入賞した(お師匠富士子さんが、入選)。
そういえば今年3月23日の中国新聞にも、『福山動物園写真コンテスト』
で銀賞(市教育長賞)として、広士さんの名前があった。
なお、富士子さんは、『中国新聞社読者写真コンテスト358回』で、みごと2席入選。
鞆町で撮った「さより干す頃」が、3月23日の紙面で大きく紹介されるなど、
元気印のカメラワークは、ベテランの域に達していらっしゃる。
坪生町狐原の掛谷典人さんの長男一弘さん(28)は、平成10年6月、
大阪大学大学院理学研究所物理学専攻の博士課程を修了、理学博士の学位を授与された。
博士論文の題名は、『高温超伝導体におけるジョセフソン・プラズマ現象』。
論文内容の要旨をいただいたが、これが日本語かと、その難解さに感心するばかり。
一弘さんは現在、筑波大学で物質工学系助手をされている。
掛谷秀昭さん(34)は、いまアメリカ・マサチュセッツ工科大学に訪問研究員として、
家族ともども年末まで渡米中である。
秀昭さんは、坪生町江戸野をルーツとし、現在、井原市大江町で鮮魚・仕出し『かけや』
を営む掛谷敏昭・恵美子夫妻の長男である。
研究テーマは、癌。『正常細胞に影響を与えないで、
癌細胞のみを選択的に殺す薬剤の開発』がメーンテーマである。この研究で今年六月、
福岡で開催された日本癌分子標的治療学会において『奨励賞』を受賞された。
この博士、慶応義塾大学卒の工学博士で、現在の籍は、
理化学研究所抗生物質研究室の研究員(埼玉県和光市在住)である。
三人目の青年博士・掛谷英紀さん(28)は、やはり坪生町江戸野をルーツとし、
京都府長岡京市在住・掛谷宣治さんの長男。
東京大学理学生物化学科を卒業。同大学院計数工学専攻を経て、先端学際工学修了で工学博士に。
現在、郵政省通信総合研究所勤務。研究テーマが『介護ロボット』と聞くと、
にわかに身近に感ずる。
三人に共通することは、親思いの、根っから明るい好青年であること。
頼もしい限りである。
平成11年6月27日の日曜日。慈雨に濡れそぼった坪生盆地の緑は、濃淡さまざまで、
まことに美しい。
滑池から、水路を伝って流れ落ちるせせらぎの音が、絶え間なく、心地好く聞こえてくる。
標高60メートル位に位置する西楽寺の、西側に展開する田畑は、目測して43面。
そこに水を湛え、稲の苗が植えられているのは15区画である。
この43面の全部が水田だったかつては、みごとな棚田の風景が広がっていた。
棚田で知られるのは、能登半島の輪島市指定名勝地『白米の千枚田』である。
日本海に面し、実際には二千五百枚あるそうだが、蒸気機関車と同じで、
もう巧芸作品としか言い様のない、息を呑むような素晴らしい風景である。
坪生の棚田を、その気になって見回わしてみたい。
江戸時代の坪生村は、『水田一〇〇町取高一〇〇石』と、古文書は記している。
それが、今や二十町歩まで激減した。減反政策の成果と言うべきか、日本農政の荒廃と言うべきか。
日本の原風景・水田を底抜けにほめたたえ、一枚一枚の水田に、拍手を送りたい。