坪生の三つ子ちゃん、スクスクと

 坪生町狐原、掛谷正さんの長男ご夫妻、正弘さん・好美さんに、三つ子ちゃんが誕生したのは、 平成11年1月26日。
 命名して、直生(なおき)くん、和生(かずき)くん、実生(みき)ちゃん。
 二男一女である。
 誕生時は、一九〇〇〜一六〇〇グラムと未熟児で、長い間、おウチに帰れなかった。
 一才と四ヵ月となった今、家中を、ヨチヨチながら走り回わる成長ぶりである。
 お訪ねして好美さんに話をうかがっていると、同じ目線で六つの瞳にジーッと見つめられ、 こちらが照れっ放しであった。
 パパ正弘さんは、早朝出勤の仕事のため、 育児はもっぱら祖父母の正さん・アサ子さんの手を借りて、「ほとんど三人がかりです」と、 好美さん。
 血液型を聞くと、「みーんなO型です」。正弘さんも好美さんもO型だから、当然か。 育児ノイローゼどころか、こりゃぁ、心底楽しんで育児に邁進していらっしゃる、と見えた。

72歳、ホノルル・マラソンを完走

 坪生町狐原出身で、伊勢丘八丁目在住の掛谷敏男さんが、昨年十二月十二日、 ハワイ島のワイキキの浜で開かれた『第19回ホノルル・マラソン』に挑戦、 四二・一九五キロを見事に完走された。
 エントイーは三万人で、完走者は七割の二万一、一五六人。
 同氏のタイムは5時間32分10秒だったが、九、七二七位というから、大変なもの。
 きっかけは、同氏のご次男・通幸さん(広島県庁勤務=40才)にすすめられ、 初のフルマラソンをハワイで実現した。マラソン歴五年の通幸さんは、 3時間05分43、一五六位と、これまた大したものである(優勝者タイムは、2時間16分45)。
 「当日は大雨で、午前五時、真っ暗な中でのスタートでした。この大会はアメリカはもとより、 ヨーロッパ、オーストラリア、アフリカなど国際色豊かですが、 日本人が40%とダントツの参加です。コース全体でガンバレの声が続いて、また、 大会のボランティア・スタッフの献身的なサービスに感動しました」と感慨深げな敏男さん。 因みに、参加料は一万円。六泊七日となった費用は、約二十万円とか。
 72才の国際マラソンへの挑戦に、拍手・脱帽である。

ますます元気、孝已さん

 四月十一日の中国新聞県東部版は、『新人8人、喜びに沸いた』の活字が躍り、 バンザイを繰り返す後援会事務所の写真を掲載していた。
 周囲の強力な薦めで、昨年末、定年を機に立候補を決意した神原孝已さんは、 もちろんその中の一人であった。
 学区推薦(もちろん、郷土史研究会も)という、異例の後援会組織は、 政党のような一枚岩とはいかないものの、また、 企業推薦候補と共存せざるを得ない事情もあったが、新旧さまざまの知恵と力が結集して、 見事に花ひらいた。
 五月十五日初議会に臨んだご本人は、ピカピカの一年生ぶりを発揮。抱負を尋ねると、 「現役時代は、責任が頭から離れなかった。今は、三、八二八票の付託にどう応えられるか、 票の重みを双肩に担っていると認識しています」と、相変わらずお堅いこと。
 お酒もやめて、体調万全とおっしゃる孝已さんは、声も大きく、 生き生きと輝いていらっしゃって、ひとまわりはお若く見える。
 永持ちさせてほしい。

油絵制作に打ち込む、江戸野の公子さん

 五月十一日、『大観特別展』を目的に、ふくやま美術館に出かけた。
 大観に堪能して、一階展示室の『第51回福山美術協会展』をふらりと覗いて、驚いた。 百六点の作品が、いずれも大作・力作で、「こりゃぁ、レベルが高いワ」と軽口を叩いていると、 掛谷公子さん(われらが会員、掛谷毅さん夫人)の名前と作品を見つけた。
 30号の大作『ひととき』である。安楽椅子に腰掛けた女性が、雑誌をめくりながら寛いでいる、 といったアングルで、暖色をふんだんに使った、たしか昭和58年頃、 市美展で優秀賞に選ばれた作品『遊園地』に似通った、たいへん明るい色調の作品である。
 公子さんに、そのことを電話で伝えると、「あの優秀賞は、油絵を始めて最初の大作でした。 いきなりの大賞で、心底びっくりしました。絵はもちろん大切にとってありますし、 あの感激は今も忘れられません」と、振り返ってくださった。
 そして福山美術協会展とは、美術協会公募展で4回以上入賞した人が出展できるという、 たいへん権威のある美術展であることがわかった。
 なお、公子さんは七年前に東光会に所属。月1回平均の出展に合わせ、制作に励み、 昨年は日展にも出展したという、バイタリティあふれた活動を続けている。
 「絵の具、キャンパス、額など、けっこう費用がかかります」と、 やなぎゴルフセンターでの交替勤務に励んでいらっしゃる。

あの、『美術年鑑』にも載ってます

 坪生町東池平に、日本画で入選を繰り返している人がいる。
 長岡雅子さん(53)で、雅号を珠香と号し、その道の権威『美術年鑑』には、 平成六年号から『近代日本画部門』に堂々登場、『1号一万六千円』の評価を受けている。
 日本画の中でも、墨絵・水彩・岩彩と、多彩な手法に取り組み、お師匠さんは、 神辺町箱田の延近玉旺先生(89)。
 日本画を始めた一年目の、昭和63年に初出展した第35回新美術協会展で、 いきなり入選した『馬』は、50号の大作。ローズアリーナ近くの喫茶店『琥珀』に、 最近まで展示されていた。
 昨年秋の市美展では、書道前衛部門で入選。最近は俳画に力を入れ、 俳画と書を結びつけた、ハガキ絵の面白さも追求している。
 御幸町岩成のお食事処『茜』の2階で、月2回(火曜日)、俳画(色紙)を指導、 同店には常設展として、30点もの俳画が鑑賞できる。
 坪生の自宅でも『長岡俳画教室』として、毎週火曜日の午後、愛好者に求められるまま、 指導に当たっている。
 自営業(木材工作物制作)のご主人・一成さんが最大のファンらしく、 「やりたいようにやらせてもらっています」と、幸せそのものの表情である。

池口さん、中国新聞短歌部門の選者に

 五月二十日付け中国新聞福山圏版文化欄の短歌の選者は、 『福山短歌会・池口渥子(坪生町一〇八五)』とある。隔週の担当で、平成十年秋から、 お名前が見られるようになった。
 「毎回三百首を越す応募のなかから、二十首だけを選ぶのはたいへんです」とおっしゃる。
 そのなかで今回も、われらが会員・掛谷敏男さんの作品が光っている。

春浅き河岸の舗装に鴨のむれ腹温めおり釣人に近く

 山鳥の庭に飛び来て斃れふす荒るる自然を我は思いぬ

など。
 池口さんはかつて、坪生学区の婦人会(いま、女性会)会長をつとめ、 わが研究会に籍を置かれたこともある。毎回のように二十首の中に選ばれる掛谷さんが、 われらが会員とは、全くご存じなかったというのも、たのしい。
 また、平成10年には、村上カヨ記念基金による善行市民表彰で『ばら賞』27人の、 受賞者名簿のトップにお名前があった。
 あららぎ系蘆舟短歌会に属して30年、福山文化連盟発行小冊子の短歌欄の選者を永年つとめ、 備後地区という広域の百二十人規模の会の指導を続けられたことが、受賞理由に記載されていた。
 中国新聞の選者として、今後久しいご活躍を期待したい。

ハピータウン下の、NTTの所が噴火口

 一同に配られた色鮮やかなカラー写真、アメリカの宇宙衛星インテルサットで、 約10万メートル上空から撮影したものを示しながら、
 「幕山台周辺は、周りを山に囲まれた盆地状になっていますが、 円を描くように見える範囲が、クレーターの跡です。ハピータウン下の信号を、 坪生の方から見て左にはいった、駐車場になっている所に、大きな隕石が落ちて、 そのショックで、火山が噴火して出来上がった地形です。行ってみてください。 溶岩が見られます。そして、春日池の方向が、噴火の後に出来た湖の水が抜けた名残りです。 もちろん、これらは大体百五十万年前の出来事です。わたしは、隕石のかけらも採取しています」
 4月29日、わが研究会総会の特別講演で、『坪生周辺の謎について』と題して、 坪生小学校前校長の平川光明先生は、身近な、どでかい話を連発、受講者一同、 あっけにとられて聴いていた。
 地球規模の話は、おでこの縦じわを、横じわに変えてくれる。

「受委託農業」の今日事情

 「委託農業じゃゆうて頼みょうたら、なんからなにまでゼニがかかるけぇのう。 ぜーんぶ足しょうたら、買うたほうが安しぃけぇのー」
 コメづくりを放棄したか、ムリしながらも自分で米づくりをしている人は、こう言い放つ。 あまり断定的に言われるので、話はそこでしらけ半分にとぎれてしまう。
 ホンマかいな。そこで受委託農業とミニ・ライスセンターを始めて20年目という、 東池の掛谷常雄さんに、コスト事情について聞いてみた。
 「普通のライス・センターは、集めたお米をぜーんぶ一緒くたにして乾燥・調整。 重量中心に、依頼者に引き渡す。うちのミニ・ライスセンターは、一軒一軒別々に、 乾燥・調整して引き渡しとります。受委託農業ですか? 作業工程は、 (1)耕耘(2)挽き返し(3)水溜め・代かき(4)苗づくり(5)田植え(6)施肥防虫除草(7)刈り取り (8)乾燥・調整―という、約6ヵ月の作業を経て、玄米になります。 (1)(3)(5)が反当たり一万一、〇〇〇円など、農協で決めた料金があり、大雑把に言うて、 1反当たり、計一〇万円の委託費用が要ると思うてください。今、 1反の収量は3〜4石という時代です」
 で、計算してみると、1反当たり3石採れたとして、1升三三〇円。肥料農薬、 水引負担料を払ったとしても、「なんで買うた方が安いんじゃ」と申し上げたい。
 受委託農業者は、いまや原日本の風景である水田の守り手である。そして、 大型機械を抱えるなど、結構大変なのである。

『福山市立 つぼう森林公園』誕生?!
―構想するだけでも、楽しい―

 「山は、ゼニにならん」とは、時に耳にする、気になる言葉であった。私たちの暮らしが、 その熱源を薪からガス・電気に変えてから、山の中に人々が入ることが激減した。 つれて山が荒れ始めた。
 「マツタケの再生をめざして、山仕事をしよう」と、 身近い西楽寺山から始まった私たちの里山運動は、さらに発展して、 東池平の上土居山頂上への林道を、とうとう開通させた。
 三十年ほど放置されていた山道は、背丈ほどに笹が茂り、道の真ん中に樹木が生長していた。 これを「荒れた」と観るのは、人間の側の論理である。自然は伸び伸びと世代交代の営みを続け、 小鳥や小動物と共存していた。今回の林道整備は、人間が自然に親しむための、おジャマ虫である。
 思えば、森林は、巨大なガス交換器であり、水を蓄える緑のダムであり、 天然の浄水器である。また、健康の源『フィトンチッド』を放出する森林浴の大浴槽といえる。 おカネには換算できないほどに、偉大な存在であったことを、かぶれたり、大汗をかいて学んだ。
 その後、案内板・標識板17本を設置した。