八月、お盆時の『坪生学区夏祭り』、十一月の『ふれあいフェスティバル』など、
大勢の人が集まる所では、必ず大量のゴミが排出される。
《ゴミゼロ》運動を旗印に、学区内のクリーン活動を実践している
『坪生ローズクリーン・サークル』(森迫清之代表)は、
郷土史研究会の掲げる「里山の景観に責任を持とう」との方針と提携、
大型放置ゴミの回収に取り組んでいる。
クリーン効果が顕著だったものを記すと、
【平成12年】
6/28 西池平の溜め池から放置バイクを引き揚げ、分解資源化する、四人。
7/24 井ノ木の畑への放置金属ゴミを、軽トラックで搬出、二人。
9/25 東池平の粗大ゴミ・自転車など多数を、分解資源化する、三人。
11/4 中組第2の放置バイクを回収、分解資源化、四人。
【平成13年】
2/1 学区内の放置自転車八台を回収、分解資源化、八人。
3/7 山ノ奥の辻ノ池よりオートバイ五台、自転車四台を引き揚げる、十人。
3/8 東池平で農具廃材を、軽トラック1台分搬出、資源化、五人。
つぼう郷土史研究会・秋の臨地研修会、平成十一年は、
『富士の大自然にひれ伏す』と題して、十七人が富士の偉大さと、美しさを満喫した。
ガイドをしてくれたのは、富士山クラブの事務局長Aさんであった。
その折りも、富士山登山者が残していくゴミ処理、
なかでもトイレ垂れ流し現象が強く指摘されていた。そう言われてよく見れば、富士山の中腹、
観光バスが上がっていく山小屋群の裏手からは、白い帯、すなわちトイレットペーパーの流れが、
何百mと続いているのである。
平成十二年、杉チップを利用したバイオ・トイレを、富士山の五合目、
須走り口と吉田口の2ヵ所に実験設置した結果、1基で一万人分のし尿を、
炭酸ガスと水に分解し、汚泥なしという素晴らしい結果を得たという。
今年は富士山頂に、杉チップ型2基、おがくず型2基の計4基の設置を計画している。
6万人分のし尿処理が可能というのである。
その費用2千万円の募金と、作業につきボランティア要員を募っている。
日本の象徴・富士山の再生は、いま確実に始まろうとしている。
慈雨に恵まれた六月中旬、坪生の地に、真っ白いユリ、濃いオレンヂ色のユリが、
ゆらゆらと咲き誇っている。江戸野の滑池史跡公園と、神森神社鳥居脇の笹舟先生顕彰碑前である。
平成十二年七月、宇部市在住の賛助会員・小森浩さんから、
「研究会の皆さんで坪生の地をユリの花の里にしてみませんか」との提案があり、折り返し、
ダンボールにおがくずを詰め、花の種別に分けられた、大量のユリ根が届いた。
鉄砲ユリ、姫ユリ、鬼ユリ、ラッパユリと種別に、しかも大中小に分けてあり、
植え付けの仕方の説明文と図が添付され、精魂込めての同氏の思いが込められていた。
食用としても珍重されるところから、乱獲が絶えず、実際、ユリ根の採取は大変のようである。
手始めに西楽寺境内に植えたあと、九月と十一月の2回に亘り、
計三十人が出動して一斉作業をしたが、その割には、約3割方のゆらゆらに、
小森さんへの申し訳なさが募るのである。
平成十二年初秋のある日、郷土史研究会の用で坪生小学校を訪ねた。
正面玄関を入ると校長室だが、お隣の職員室から、コーラスの歌声が聞こえてきた。
快活なリズム、とても明るいメロディーである。
職員室といえば、校長先生・教頭先生と教職員との、割りとギスギスしたというか、
緊張感あふれた場だと思い込んでいたイメージが一転、何だか温かみを感じ、
ホッとする一瞬であった。
そして郷土資料室のある三階への階段を昇っていくと、あちこちの教室から、
すごくハイテンポな、子供達の歌声が響いてきた。思わず「おっ、ええなぁ」と、
こころ楽しくなったものである。
あとで聞くと、授業開放の一環としての、音楽発表会の練習を兼ねていたとのこと。
深刻ぶったり、抑え付けたりとは無縁の、一瞬にして心を一つに出来る、
なんともこころ弾むような、ある朝の坪生小学校であった。
坪生町山ノ奥の、故橋本定一さん宅(現当主・卓雄さん=広島市在住)は、屋号を段原と称し、
坪生地内の旧家の一つである。
同家の本宅及び土蔵は、平成十二年十月中頃、三日間の取り壊し作業で、
きれいに更地となった。すぐ裏手を通る県道の拡幅工事に伴うものであるが、旧家の消滅は、
寂しい限りである。
つぼう郷土史研究会では、七月十五日、同家の要請で家具、道具類の搬出の手伝いを兼ねて、
土蔵の中に初めて入らせていただいた。
長年の、多分四、五十年分のほこりが積もっていたが、ネズミなどが荒らした跡もなく、
保存状態は意外に良かった。
道具類は、坪生町葉座で古物商を営む石田修治さんに任せ、研究会としては、
古書類・便りなど文字・活字に類するものを、一片たりとも洩らさず搬出した。
最後の水車搬出まで、計四回、大雑把に分類しながら詰めた段ボールは、十三個に及んだ。
故橋本定一氏は、勤勉豪胆の人。柔道八段槍術四段剣道三段という猛者で、
若い頃は顎鬚を長く延ばしていた異相で知られる。
警察幹部を退職後は、地元の役職を一手に引き受けておられた。
同氏の父・有平氏は、三十三歳の若さで急逝。男ばかりの三人兄弟(利夫、定一、眞三さん)は、
母タケノさんの手で、しかし多くは祖父母太四郎・ウメさんによって、
明治の生き方を叩き込まれた。
搬出した諸資料から、男三兄弟の、幼児時代から少・青年への成長過程が、
克明に読み取れるのである。
今や全国的に、地域社会になくてはならないのが公民館である。趣味・教養・健康面など、
多彩な活動は、生きがいの拠点となっている。
任期満了に伴ない、坪生公民館館長は、掛谷宗久さんから福永絢子さんにバトンタッチされた。
平成十三年四月一日付けである。
坪生公民館の発足は、昭和四十八年七月一日。
初代 藤田哲雄さん、二代 掛谷忠義さん、三代 掛谷宗久さん
第四代目にして、初の福山市内でも、四人目の女性館長である。
そう言えば、公民館駐車場のフェンスの交通標語、「飛ばし過ぎ、
明日はあなたのお葬式」について、マイナス発想の脅かし文句として前々から指摘していたが、
新館長さんは、「どなたが、いつ掛けられたのか不明のため、はずしました」と、
素早い決断を示していただいた。
「思いやり、いい町、いい人、いい運転」への改革路線に、期待大である。
平成十二年九月十四日の中国新聞は、「地域に根付け、交響楽団」という大きな見出しで、
『福山シンフォニー・オーケストラ』(近藤桂司代表、四十五人)を紹介していた。
この楽団は、非営利のコミュニティー・オーケストラとして、
福山地区のプロ・アマチュアの演奏家を中心に結成された。従ってメンバーの報酬はなく、
会場準備などもボランティアの協力を得て運営している。
同年十月一日、リーデンローズで第一回定期演奏会が開かれたが、
楽団の後列でトロンボーンを吹く、坪生町大塚の渡邊匡さん(45)の勇姿があった。
匡さんは、中高大学と一貫してトロンボーンを手にし、関西大学でも吹奏楽部に属した。
卒業後は、富士工業に勤務する傍ら、吹田市交響楽団で活躍していた。
平成三年、考えるところ(跡継ぎ意識か)があって帰郷。地元企業に勤めながら、
クラシックを中心とする吹奏楽団『福山シティ・バンド』(60人)と、
ジャズなど軽音楽系中心の福山市役所の『ワーキング・ビーズ・オーケストラ』
(25人)に籍を置き、交互に、したがって殆ど毎日、練習に駆け付けている。
音楽教師だった父・了介さんの跡を継いで、
福山地区になくてはならないトロンボーン奏者であり、後進を養成する年齢になりつつある。
今年四月二十日付け中国新聞は、「難関突破し、憧れの宝塚へ」との見出しで、
坪生町西池平の橋本慶三・清美さん夫妻の長女真由さんを、5段組み顔写真入りで大きく紹介した。
真由さんは、暁の星女子高の1年生、16歳。一七一pという身長を活かして、
男役希望とか。3歳からバレー、5歳から声楽を学び始め、
ピアノ・バイオリンもこなすという異才ぶり。
宝塚音楽学校は、中3から高3までが受験でき、20倍、西の東大と言われる。
宝塚初挑戦での一発合格が、紙面掲載となったわけである。
三次試験までをこなした真由さん。修業期間の2年間は、軽くクリアされるに違いない。
舞台デビューが、待ち遠しい。
平成十二年十月二十九日の中国新聞は、『福山市中学校駅伝競走大会』の結果を報じていた。
男子は東朋中学校が、圧倒的強さで優勝。区間最高タイム選手として、
7区間のうち5区間を東朋中の選手が占めていた。
2区 岩田智也、4区 古賀貴大、5区 三宅政貴、6区 塚本健太、7区 神原将行
また、ロードレース種目(男子3km。女子2km)でも、
男子(2)竹谷(3)後藤、女子(1)井上(3)島田の四選手が上位を占めていた。
東朋中陸上部は、平成四年から同十一年までの七年間、
馬屋原浩之先生(社会科)が勤められ、東朋陸上部の基礎を築かれた。
現在、馬屋原先生が率いる新涯町の誠之中学校は、平成十二年十二月の全国駅伝大会で、
女子チームを優勝(県下初)に導いていらっしゃる。
平成十二年度は、会員の訃報が相次いだ。寂しい限りである。
二月八日、元気者の「てゃーさん」こと、桑田大三さん(76)急逝の報に驚いた。
例会では寡黙を貫き、しかし一杯入ると、「へーじゃけーゆうてものー」
「あしらーはのー」と、巻き舌の備後弁で持論を展開、回わりの者を黙らせていた。
たしかに、お酒は強かった。
研究会四代目会長の掛谷忠義さんの訃報は、七月二十七日、79歳。いま少し研究会へ、
お知恵がいただきたかった。
持ち前の気さくさと、公民館長のお立場を活用、賛助会員を多く研究会に招いていただいた。
二代目会長・神原利一さん示寂の報は、十月二十九日。九十三歳というお歳には不足ないが、
研究会創設二十周年行事を目前にしての訃報には、申し訳なさが先に立つ。
そして、「こんなに誠実な、情熱的な、いい人に出会えて、
底抜けにありがとうと申し上げたい」が、密やかな弔辞である。