環境問題に、一石を投じた?

 十二月九日、坪生小学校を拠点に、『家族環境小学校in坪生』と銘打った、大集会が開かれた。
 主催は、ゴミをなくそう円卓会議。環境問題に取り組む、 福山市全体のボランティア・サークルである。
 一般新聞紙上にも案内を掲載、「千人くらいは確実。二千人いらっしゃるかも」と、 企画者の鼻息は荒かったが、現実は二〇〇人ほど。大集会には今一歩の、 しかし問題提起の豊かな、心あたたまる企画であった。
 つぼう郷土史研究会では、会場に『里山再生運動の、パネル写真集』を展示する一方、 『森林浴コース』として、上土居山の林道散策の現地ガイドを担当した。
 参加者13人に、ガイド7人。好天のなか、森林浴コースの皆さんは、樹木の名称、 切り株に自生する茸、イノシシの水飲み場など、林道での観察(二瓶康男会員担当)、 山頂では、松岡稔・瀬良浩迪・永道仁志各会員による、『坪生のいま・昔』 の説明にメモを取りながら、熱心に聞き入っていた。

誰故草を育てて、もう三十年

 坪生町宮ノ前にお住まいの、秀洽之さん方では、 現在34鉢(大6、中28)に植え付けられている誰故草の花が、今年は四月一日から、 一斉に咲き始めた。
 四月九日、つぼう郷土史研究会月例会の帰りお訪ねした。案内されると、 「ウッヒャー、きっれーい」と歓声をあげ、実生での育て方の難しさについて、 矢継ぎ早に質問の矢を飛ばしていた。
 「もう三十年になります。花が咲いたあとタネを取り置き、二、三月までにタネを播きます。 水やりと霜を警戒し、冬はビニールを掛けます。夏日の強すぎもいけません。 芽が出る七〜九月に植え替え、一年置いて、二年目から花が咲きます。四、五年経つと、 次第に大きな鉢に移し替えていきます」と、淡々と話して下さり、 ちょっとマネは出来そうにないことがわかった。
 福山市文化財保護指導員を務める二瓶康男会員は、秀さん方を訪ねた帰り、 福山市天然記念物に指定されている『宇山のエヒメアヤメ自生地』を視察、「五株ばかり、 咲き始めていました」と、弾む声で報告して下さった。
 自生のものは、開花が遅いのか。

「山に、タツノオトシゴ?」

 今年の五月一日、中国新聞備後版に、表題の見出し。脇見出しに「福山の土居山、 ギンリョウソウ開花」として、カラー写真付きで、紹介された。いい見出しである。
 写真の女性は、平成12年の本稿、『あの、美術年鑑にも載っています』 と題して登場していただいた、東池平の長岡雅子さんのニコニコ顔である。
 ことの発端は、上土居山林道1.5kmを殿迫池まで少し延長したあと、 方向指示板五本の設置作業をした3月31日、 智光寺谷と殿迫池方面への分岐点近くの萱の群生する辺りで発見した。 白っぽいナゾのキノコらしきものから始まる。
 写真を撮り、牧野植物図鑑で調べたが、探す科目が違うのか、さっぱりわからない。 あれこれ手を尽くしているうちに、「五年前に東池で発見、 ギンリョウソウと教えられました」との情報。図鑑を見るとしっかり載っていた。
 このあと、掛谷常雄さんから農業新聞と中国新聞に通報、大騒ぎが始まったという次第である。
 中国新聞に掲載された5月1日、「えらい騒ぎで、大勢(二〇〜三〇人)の人がウチに来て、 こまりゃんした。あしたはRCCとJAの取材じゃそうな」と掛谷さん。
 「あんなにあったのに、なーんにもなかった」事態は、予測しなければいけないこと。 うっかり共存共栄しようとすると、根こそぎ無くなる、ことを教えられた。

全国優勝の大野梢さんは、青葉台在住

 平成13年10月14日〜17日の4日間、仙台市を中心に開かれた第56回国民体育大会。 この大会『弓道競技』で、広島県は、少年女子(高校生)の部が『遠的』優勝、 『近的』五位を勝ち取り、結局『少年女子・総合一位』に輝いた。
 このニュースは、当時の中国新聞スポーツ面で、3人並んで弓を引くカラー写真付きで紹介された。 そのいちばん後ろで引いていた、小柄の、白い鉢巻きが印象的な少女が、 大門高校三年生の大野梢さんであった。
 青葉台4丁目在住の大野さんは、坪生小・東朋中・から大門高校へと進み、 そこで初めて弓道に出会った。いい先輩に恵まれ、メキメキ腕を上げた。福山には、 近的道場は2ヵ所(福山市営弓道場、NKK弓道場)あるが、遠的道場(60m)はない。 大門高弓道部は、大会1週間前になると、校庭に朝七時〜八時の限定で的を置き、 遠的練習に取り組んできた。
 県代表の常連・県立工業高校の占める代表メンバーに一人だけ喰い込んだ大野さんは、 国体出場前の夏休み中、ほとんど毎日、朝9時広島着で県工高道場に通い、練習に励んだという。
 いま福山地区の高校では、大門高校のほか、誠之館、盈進、暁の星、葦陽、明王台、沼南、 神辺旭高校などの弓道部が、活躍している。
 なお、平成13年6月現在の、大門高校弓道部員は42人。うち坪生学区在住では、坪生町5人、 青葉台4丁目2人の計7人の名があり、大野先輩に続けと、毎日練習に励んでいる。

坪生に、棒術復活か?

 日曜日の朝早く、江戸野地区の『仏伝寺公園』で、エイッ、ホーッ、 ヤーッといった掛け声と共に、気迫溢れた動作で、2mほどの棒を使って組み手の稽古をする、 小集団が見られる。
 聞けば、流儀は『古流棒術』と言い、指導者は、狐原地区在住の神原幹男さん。 受講者は、神原充くん(中2)、山本涼太郎くん(小3)、そして内藤快應・龍(小4)父子。
 このメンバー、実は『極真空手坪生教室』の早朝練習生であり、棒術のほか、 居合道にも取り組んでいる。
 多彩な武術を身に付けた人が、こんな身近にいらっしゃったとは。
 坪生の地は昔から、剣道が盛んであったが、棒術の達人も居られたと聞く。 馬鞍山からの伏流水のように、遥かな棒術が、現代に蘇ったか。
 この早朝練習に、ためらわずに参加している内藤龍くん。実は、昨年9月30日、 米子市で行なわれた『第五回中国地区青少年空手道選手権大会』に、 小学生3年生の部・各県代表6人の一人に選ばれて出場、3人倒して、みごと優勝している。 空手を習い始めて、僅か2年の快挙であった。

古代エジプト文明展に、ショック!

 つぼう郷土史研究会・春の日帰り研修。今年は、広島県立美術館で開かれた 『古代エジプト文明展』(中国新聞創刊百十周年記念事業)に出かけた。
 28人乗り日の丸バスは、満杯である。新聞の企画記事などで資料を作り、 予習したつもりであったが、遥かなエジプトは、 知識面でもはるかな存在であったことを思い知らされた。
 古代から現代までのエジプトを既観してみると、
 (1)紀元前三〇〇〇年頃、ナイル川沿いに統一王朝が誕生。
 (2)以来、約二七〇〇年間、歴代王朝が栄えた。
 (3)紀元前三四三年、王朝が崩壊。以来、 アレキサンダー大王やクレオパトラ七世の名で知られるプトレマ  イオス朝〜ローマ帝国支配時代〜イギリス植民地時代と、二二〇〇年に亘り、 異民族支配下に置かれる。
 (4)一九二二年(大正11)の独立宣言で、漸く異民族支配から脱したのである。
 したがって、文明展で驚きと共に目にしている出土品は、 この地球上から消滅した民族の遺産といっても言い過ぎではない。
 古代エジプトの死生観・多神教的世界観・大自然にすべてを委ねる生き方など、 縄文世界に共通するものがいっぱいである。
 ピラミッドやスフィンクス、ヒエログリフ(聖刻絵文字)など、これからの発掘調査、 謎解き研究に待つところが、まだまだ山ほどあるそうな(このあたりは、 吉村作治・早稲田大学教授の著作から教えられた)。

坪生小学校の校舎に、大壁画出現

 平成13年9月8日、坪生小第一校舎の三、二階部分に、巨大な壁画が出現した。
 創立百三〇周年を記念して、PTA・教職員・児童らが一体となって、 児童が考案したデザインをもとに、制作した作品である。
 『宇宙船坪生ドリーム号 無限の宇宙へ』と題するこの壁画、デザインしたのは、 六年生の斉藤詩織さんである。全校児童・教職員・PTAが一丸となって集めた空き缶が、 なんと一万三、八〇〇個。空き缶を色別にわけ、デザインに沿って繋いでいったという。
 一ヵ月後の10月6日に解体されるまで、130と大書きしたロケットは、 無限の未来に向かって宇宙空間を飛び続けていた。
 しかしこのアイデア、結束力を高めるには最適、経費は最低、効果は抜群。 9月30日付け中国新聞でもカラー写真付きで紹介され、見学者がわざわざやってきて、 カメラに納めながら、「ウッヒャー」と感嘆の声をあげる声しきりだったとか。

大正生まれの、ド根性じゃ

 平成10年のことであるから、もう旧聞に属することと、当事者には、話題にすることを、 お許しいただきたい。
 台所で、突然燃え上がった石油ストーブを、炎にあおられながら、裏口に引きずり出し、 壁をはう炎を、はたき落として消し、家を守った人がいる。
 平成10年12月6日、江戸野地区の掛谷良彦さん(72)は、 自宅台所で、高一のお孫さんと二人で昼食を摂っていて、突然、石油ストーブが発火した。 灯油と間違えて、ガソリンを給油していたのが原因だが、その時は、 なにがなんだかわからないまま、床をはう炎に、台所を飛び出した二人。
 高一のお嬢ちゃんはオロオロするばかりであったが、良彦さんは気丈なもので、 近所に火事であることを知らせるよう指示する一方、炎にめげず、 出火元の石油ストーブを外に蹴り出すべく大奮闘。
 箒の柄を利用して何とか外に放り出したあと、室内の消火に取り掛かった。 まさに炎の中での孤軍奮闘であった。
 翌日、火事見舞いにお訪ねして驚いた。台所の内装は、ほとんど黒焦げ。 レンジや冷蔵庫は、焼けてゆがんでいる。ガソリンの炎の凄まじさを物語っていた。
 天井板が燃えにくいボードであったことが幸いし、火が屋根に抜けていなかったのが、 本宅へ延焼しなかった要因かと推測した。
 「ようここまで焼けていたのに、消し止めましたね」と聞くと、 「もう必死でやんした。ふとんではたいたり、最後は井戸の水をかけて、 ほとんど消したところへ消防車が来やんした」と、さすがに興奮気味に話して下さった。
 とっさの時に、決して怯まず、通報・消火など、応急の手立てをなさる、 それが明治・大正世代の、知恵であり、胆力なのである。
 「すっごい人がいたもんだ」。・・・脱帽。

ありがとう、池田 豊さん

 われらが会員、池田豊さんが、急逝された。
 平成13年12月20日午前7時半頃、『朝起き会』に参加しての帰り、 ハピータウンの下り坂を自宅に向かう途中、自転車が転倒、頭部を強打、同日夜、 入院先の太田病院で帰らぬ人となられた。
 法名は、釋豊誓信士。享年69歳。
 同氏は、青森県弘前市出身。昭和32年からNKK一筋に勤め上げ、 平成5年満60歳で定年退職されていた。
 その頃発足した、ゴミゼロ運動のボランティア団体 『ローズクリーン・サークル(森迫清之代表)』に当初から参加。重要な役割をつとめておられ、 森迫さんの片腕として、回収車の助手席には、いつも姿が見られた。
 昨年からは、地区老人会の会長もおつとめ。
 あまりにも突然の黄泉への旅立ちに、池田さんを知る多くの人達は、絶句するしかなかった。
 寡黙でいつもニコニコ。こよなくお酒を愛され、家庭においては、家族思い、 奥さん思いで知られていた。
 池田さん、いい笑顔を、いいご家庭を、いい地域を、ありがとう。哀悼・合掌。

やっと根づいてきた『里山再生』運動

 3年ほど前から取り上げてきた『里山再生』は、身近の山仕事から始めた。 あとの焚き火を囲んで、缶ビールを手にの放談会が何回か続いた。
 「わしらが子どもの頃、学校から帰ると、牛を連れて山の中腹の放牧場にいきゃんした。 あの山道を復活できんじゃろか」「やろ、やろ」。そこは勢いというものである。
 第一回目、なんと27人が集まった、研究会員に町内会役員も加わった。 上土居山林道復活への第一歩であった。
 約40年間、ほとんど手付かずの山道は、想像以上にすごかった。中間点から先は、 背丈くらいの笹が行く手を阻み、成長の早いエノキなどが山道の真ん中から、 20cm位の太さでニョッキリ突つ立っていた。草刈り機2台が先頭を切り、 あとからチェンソーが。そのあとからは、ショベルカーの出動である。
 午前中でやめよう、のつもりが、とうとう夕暮れまでかかり、片道約1km、 頂上までの山道が復元できた。
 その後、林道を歩きながらの樹木研修と樹木約50本への名札掛け、 全長約1.5kmの林道への方向指示・標識・方位版など20本の設置など、 着々と再生運動は実を結んだ。
 2年目に入って、環境問題をテーマに学ぶ地元の坪生小学校5、6年生が、 里山再生運動に関心を示してきた。研究会員のガイドで林道を歩き、 森林の持つ魅力を実体験してもらった。
 おとなからは、「ゼニにならん」と突き放され、子どもたちにとっては、 「危ないから近寄らないで」の存在だった里山。
 思えば森林は、巨大なガス交換器であり、水を蓄える緑のダム・天然の浄水器であったのだ。 そして、頂上に座って眺める広大な遠景は、志を大きく育ててくれるような気がするから、 不思議である。