西池のお稲荷さんに、鯉のぼり

 4月17日、西池平の正一位お稲荷さんの丘陵に、鯉のぼりが立った。それも、五連重である。 真鯉・緋鯉の下に、子ども鯉が3流、ユラユラとはためいている。
 「重そうなのに、よう持つなぁ」と感心したが、山の中腹なので、風当たりは程ほど。 町内会有志、といっても皆んな会員だったそうだが、「ワシらのとこにも、 鯉のぼりを立てようやぁ」と衆議一決、話が出て三日の内に実現したという鮮やかさ。
 坪生盆地を取り巻く、山々の標高を調べてみた。
 お稲荷さんのあの位置は、116.7m。鯉のぼりでは先輩の、上土居山は、131.8m。
 坪生一高い、馬鞍山が、146.1m。東の、仁井山、110m。神森山、95.3m。清水山、75m。
 上土居山頂上から北方に見える、備中の弥高山は、653.59mと、さすが。
 また、福山の象徴のような千田の蔵王山は、225.5mである。

福山ばら祭で、東朋中生128人、ボラ活動

 福山最大のイベント『福山ばら祭2005』は、5月14・15日の二日間、 過去最高の81万人が参加して開かれた。5月15日夕方、東陽台の坂道を自転車で帰ってくる、 黄色いシャツを着た3人組の、中学生らしき姿が見られた。
 その翌日、東朋中学の校長室を訪ねる機会があり、偶然ながら話を伺った。 「イベントのゴミ処理という大変なことに、東朋中学2、3年生が応募、参加してくれました。 市民の一人としての、意識を持ってくれたのではないかと、嬉しく思っています。 祭実行委員会のボランティア部会の呼びかけに応え、培遠、鳳、東朋、城西、新市中央、 鷹取、近大福山中から、計275人が参加しました。その中で、東朋中の128人は、立派です。 当日、私はちょこっと覗いただけですが、生徒たちは『クリーンパトロール隊』と称して、 福山駅からメイン会場の緑町公園までの距離を、5人グループで散って、 午前9時から午後5時まで頑張りました。報酬は、その黄色いシャツと500円の昼食弁当券です。 褒めてやります」と井上勝司校長は、興奮気味に、実に嬉しそうに話してくださった。
 彼らは、大会前日までに事前学習、当日は、ペットボトル、瓶、缶、食品トレー、割り箸、 残飯などに分別処理、洗浄まで手がけたという。
 素晴らしい中学生達に、心からの拍手を贈りたい。

平安時代、坪生の瓦が、奈良興福寺に運ばれていた

 今は『独立行政法人』と組織換えされた『奈良文化財研究所』から、 瓦博士が坪生を訪ねて来られたのは、平成15年8月25日のことである。 飛鳥藤原宮跡発掘調査部史料室長山崎信二博士、がその人。
 福山市教委文化課の仲立ちで、落ち合ったところは、西町の県立歴史博物館前。 かなり使い込んだスーツケースと紙袋を無造作にぶら下げて、のっけから先生は、 全くのマイペース。こちらの都合など聞くでもなく、歩いてすぐの、 市教委管轄の埋蔵文化財収蔵庫へ。ここには、郷土史研究会が発足間もない頃の昭和61年に、 江戸野の鎌山から掘り出した瓦片の全てが保存されている。
 そこでみっちり二時間。坪生から出土の、軒丸瓦、軒平瓦の紋様などの拓本取りである。 初めて見る、様々な道具を駆使しての技を見せていただいた。先生のスーツケースの中身は、 なんと拓本道具一式のみだったのである。ついでに言えば、おみやげかと思った紙袋には、 興福寺回廊跡から出土した軒丸瓦と軒平瓦が入っていた。今回の先生の目的は、 お互いの紋様の照合と、現地調査である。
 昼食を挟み、午後三時ごろ西楽寺でお別れしたが、先生の結論は、「奈良興福寺は、 平安時代だけで5回、焼けています。康平3年(1060)の火災の後、 1067年に再建供養がされています。この時、播磨・美作・阿波・備後の国司に、 瓦の納入を求めている記録があります。平成10年からの中門発掘調査で出土した軒平瓦1点、 次の年の回廊発掘調査で出土した軒丸瓦の1点、 これが今回見せていただいた江戸野・鎌山遺跡から出土の物と、 木製の版が完全に一致しました」であった。
 930年前も昔に焼かれ、奈良興福寺に運ばれていたとは。想像するだけでも、 身震いするような話である。

頑張る、坪生のママさんチーム

 平成16年10月25日付け中国新聞は、『坪生ママさん、二度目の優勝』と題して、 第20回福山市ママさん親善フットベースボール大会での結果を、カラー写真付で掲載した。
 市内19学区の頂点に立ち、3年ぶり二度目の優勝旗を手にした、 真っ赤なユニフォーム姿、喜びの全員写真である。
 公民館に聞くと、監督は渡辺和則さん(東陽台)、 日常練習から試合でのサインの出しなど実践面は、 掛谷謙三さん(江戸野・良彦さん長男)だとか。謙三さんに聞くと、 「娘のフットベース時代からの因縁で、もう12、3年になります。勝ちたい、 というママさんグループの熱意に応えて指導を始めました。冬場こそ月2回ですが、 スリーシーズン週2回、月・金19時半から二時間、グランドを駆け回わっての結果です」と、 控え目。
 坪生体協だよりによると、昨年秋の『第56回福山スポーツ祭』 (68学区2,000人参加。9種目)で、坪生学区はバレーボール、ママさんフット、 ゲートボールで優勝するなど、2位に大差をつけて総合優勝、大会2連覇を成し遂げている。
 どちらかというと文科系が、地のもん、よそもん、などと足を引っ張り合ってる間に、 スポーツの分野では、さっさと異種交流が進み、強力な団結力を発揮しているのである。

ご存知? 五角形の石柱

 青木の金毘羅さんを、ご存知だろうか。かつては、 小高い丘の八合目辺りに鎮座していた金毘羅さん。平成七年、一帯が住宅地として開発され、 児童公園西側の現在地に落ち着いた。
 あの金毘羅さんには、社殿・石灯籠が並び、その中間に、5c,角の、五角形の石柱が立っている。 坪生に五角形石柱は、ここだけ。五行思想の、なにか儒教に関わりあるものか、 と不明のままであったが、笠岡市有田在住の惣津章雄さんが、いとも簡単に解いて下さった。
 「岡山の県南に多い、地神さんです。ただ、五角柱の各面に、 天地の神・食物の神・地主の神・大地の神・国生みの神という、 五神の名を当てているところが特徴です」と。
 備後の地神さんは、大抵、自然石を利用して、『地神』とだけ彫り込んでいる。

旧坪生小学校校舎、遂に姿を消す

 永年継続してきた『坪生たずね歩きガイド』のうち、旧坪生小学校校舎と記念碑周辺は、 重要なガイド・ポイントであった。
 もっとも、周辺の目に余る荒廃ぶりは、子どもに見せるには、恥ずかしいポイントでもあった。 借主の了解を得て、運動場及び校舎周辺の大量ゴミ撤去作業は、3年に及んだ。
 全てを完了した平成16年7月末。しかし、それは同時に、解体撤去への道筋であった。 「校長室・玄関・二階への、階段周りだけでも遺せないか」との願いも空しく、 平成16年12月1日付、神森神社総代の名で、氏子に対し、 「旧校舎撤去並びに整地工事について」との回覧が回わされた。工事期間は、 12月1日から平成17年1月28日。2月1日には完成引渡し、とあり、施工は『株式会社関栄工業』。 総費用630万円也。
 現在更地となった跡地には、真砂土が撒かれ、見事に整地されている。あっけらかん、 と言うべきか。

鯉が大量死、小学校上の新池

 二瓶会員の通報を受けて、5月26日朝、森迫会員と共に現地へ。公園前に車を止め、 フェンスを乗り越えて新池の水端へ。強烈な悪臭である。池から水路へと流れ出る樋門の下には、 鯉なのか外来種のブルーギルなのか、30cmはある魚の腐乱したものが、鳥がつついたのか、 散乱状態で累々。池の水端にも、大量死の魚が浮いており、見たところ斑点もなく、 病死というより、水質汚濁・栄養過多による酸欠死かと推定。二瓶会員の話では、 「5月21日実地検分したときは、110尾ぐらいは浮いていた」とのこと。
 折りも折り、坪生小四年生は今、『溜池を、現地で学ぶ』をテーマに、 4人一組でインタビューをして歩いている。その要旨は、(1)池の水は、どこから流れてきて溜まり、 どこへ流れて行くのか(2)いつ頃造られ、なぜその場所に造ったのか(3)面積は、 名前の由来は(4)どんな魚が棲んでいるのか、なぜ死んだ魚がいるのか(5)池の水が濁っているのは、 なぜか。ゴミが多いのはなぜか ―― である。
 新池の大量死魚は、5月29日の同池水掛りの一斉溝掃除で、一掃された。しかし、 児童からの問いかけは、重くのしかかっている。
 溜池の水質汚濁は、周辺の宅地造成による生活排水の流入、 三面側溝コンクリ化による浄化作用ゼロ水路の恒常化、 水草駆除による池の水質自浄作用の低下など、ぜーんぶオトナの仕業。 便利・清潔・合理的を求める近代化の負のツケが、もたらしているのである。 魚の棲めなくなった池、その水で育ったおコメを食べている、これを子どもたちに、 どう説明しようか。

肩を組んで、大合唱

 つぼう郷土史研究会、火曜会・土曜会合同の忘年会は、平成16年12月12日、 このところ常例の伊勢丘クラブで行なわれた。列席者は、男性25人女性6人の計31人。
 カンパイのあとの前半は、いつものカラオケ。のど自慢のメンバーが、座を盛り上げ、 食欲・お酒の味を高めてくださり、会話もはずむのである。
 後半の部として、この日、初めての試みとして、昔懐かしい歌集を手作り、 みんなで歌おうよ方式を実践した。
 『いつか歩いた、あの頃の歌』と題した歌集は、 われらが郷土史のテーマソングとなっている『青い山脈』『いつでも夢を』 など21曲を収録。出だしの景気づけとして、カラオケに前奏を任せ、あとは全員が立ち上がり、 円状に並んで肩を組み、大声での合唱。これが、延々と続いたのである。