坪生の里山、3ヵ所目に鯉のぼりが泳いだ。それも4重連である。
懸案であった仁井山城跡と伝・仁井氏古墓の整備は、平成18年4月9日午前8時、
土曜会、地元町内会の人達、なんと計57人が集まって、一気にやり遂げた。
城跡は、仁井山頂上への山道が、8合目辺りで南前方へ張り出す位置である。
もう10年近く前に、地元の人達の熱意で、小さな碑は建てられていたが、その後は、
荒れるに任せていたのである。
3時間ほどでやり遂げたこの日、遠望していると、仁井山城跡に人が群がり、
あれよあれよという間に、整備跡がくっきりと色違いで出現していった。
「あそこに、幟か鯉のぼりが立つとエエなあ」とは、見る者の共通した感想であった。
研究会総会翌日の30日午後、「いま、仁井山城跡に鯉のぼりが立ちょうるでぇ」
―掛谷常雄さんからの携帯電話が、やや興奮していた。
土曜会の会員であり、町内会長の桑田和夫さんに聞いた。
「4月28日の常会で話し合い、30日当日、8人が寄って、鯉のぼりを立ち上げました。
その後時々上がってみてますが、今はモロ木に竹を縛り付けて、持たせてます。上から、吹流し、
真鯉、緋鯉、子どもの鯉と、4連重にしたので、ちょっと心配です」と。
西山さん、上土居山、仁井山城跡―ゆらゆら泳ぐ鯉のぼりを目にすると、
思わず頬が緩むのである。そして、力が湧いてくるのである。
昨年刊行の当誌21号『ふるさとだより』冒頭の記事、「西池のお稲荷さんに、
鯉のぼり」に関連して、坪生盆地を取り巻く山々の標高を調べた。その中で、
「坪生一高い山 馬鞍山 146.1m」との記述に、発刊後、直ちに異議があった。
「坪生一高いのは、西池平の三本松山の179.5m。頂上には、以前はリギタ松の大木があり、
なんでか三本松と言うとった。昨年末の12月26日、
土曜会で三本松の頂上までの山道を復活させようと、7人で整備。午前いっぱいかかった。
えらかったでぇ。正月の1月3日には、12人が上がり、西池のクラブで新年会。
その時は27人が集まったんよ」と、掛谷常雄さん。土曜会の勢いを伝える、一件である。
平成18年2月。伊勢丘のハピータウン前信号陸橋の手すりに、
『祝 大門高校弓道部 全国大会出場』の大きな横断幕が掛かった。
3月に福岡で開かれる『第24回全国高等学校弓道選抜大会』に、女子団体、
女子個人の2種目に出場することに対する激励幕である。間もなく、その垂れ幕の南向い側には、
『祝 大門高校理科部 全国第4位』、次いで、
『祝 大門高校空手道部 全国大会出場』の横断幕と続き、全国レベルで活躍する、
大門校生の健闘を称える文字が躍った。
坪生―東陽台―伊勢丘―鋼管・国道を結ぶこの道は、朝のラッシュ時には、
通勤のクルマでびっしり埋まる幹線である。実に有効な、激励効果があったに違いない。
同校の教頭先生は、「あの陸橋を管理する県建設局土木関係から、
1ヵ月限定で許可をもらいました」と、タネを明かして下さった。生徒の頑張りをこまめに、
有効に褒める術を知っていらっしゃる。
福山市体育協会が主催する『福山市総合体育大会兼学区対抗競技大会』で、
坪生学区は平成17年度も、総合優勝。史上初めての、6連覇を成し遂げた。
種目別に見ると、バレーボールでは男女とも優勝、ソフトボールは男子実年優勝、
女子は準優勝、卓球、水泳優勝という、他を寄せ付けないダントツの成績である。
平成17年6月25日に行なわれた福山市体協主催の表彰式で、坪生学区は、
市教育委員会から昨年に続き総合優勝表彰。また県体協体育賞として、
坪生学区体育会会長の澤田修次さんが、表彰を受けた。
坪生学区6連覇に導いた澤田会長は、「日本鋼管立ち上げの頃から、もう35年。
出身は富山ですが、もうすっかり福山がふるさとです。体育会会長も、8年になりますが、
各種目とも、皆よくやってくれるので、スポーツ万能学区になることが出来て、
感謝してます」と。今は箕島のクリーンセンターに出向されている、56歳。
青葉台4丁目在住の、元気はつらつ、爽やかなリーダーである。
平成18年2月18日付け中国新聞は、第41回読者写真コンテスト1月の入選作を掲載した。
『福山市坪生町・金尾富士子撮影』として、寒い日(京都市)≠ニ題する素適な写真があった。
雪が薄っすらと積もり、寒そうな朝。格子戸・暖簾の下がった一力茶屋の前を、
二人並んで歩く舞妓さんを、シルエットのように捉えたショット。
一般応募数524点の中から選ばれた、3席入賞である。
坪生町松崎で、喫茶店『デラ』を経営されている金尾富士子さん。
「京都では1月7日に、舞妓さんの挨拶回わりがあることを知ってましたので、
一力茶屋の前でカメラを据えてました。折り良く雪になり、
一時間ほど辛抱して捉えたショットです。カメラは、キャノン・イオス一眼レフ。
レンズは、28×135です。この日、同じ位置にカメラマンは、30人ほど居ましたよ」と、
ベテランらしく、よどみなく答えてくださった。
人の心を捉えるショットは、旺盛な好奇心と、周到な準備、幸運が、
もたらしてくれるのである。
平成18年1月10日の研究会火曜会。新年互礼会を兼ねていたので、全員出席の24人であった。
この日、全員に配られたのが、惣津章雄会員作の藁細工『干支(えと)のいぬ』。
9cm位の可愛い手製の藁人形である。「イノシシから始めて、
今年のイヌで丁度ひと回わりしました。藁ごしらえから完成まで、一個あたり20分位。
全くの独創で、師匠はいません」と、ご本人。
その惣津さんは、72歳。現役の陶山公民館の館長さんである。同公民館では、
平成元年発足した『陶山郷土史研究会』の月例講座、『表装講座』『そば打ち講座』など、
ご本人が主宰される講座が三つもある。
そば打ち教室は、月に2回(他に、教積院で1回)。25人の会員が5班に分かれて活動しており、
今では、よその公民館から習いに来るほど。「五、六人で始めましたが、そば粉のこと、
ダシのこと、見よう見まねで、全くの独学でした」と謙遜される。実は、
坪生公民館のそば打ち講座も、惣津さんの伝授に拠る。
その点、表装講座は年季が入っている。「40歳過ぎの頃、勤めをしながら、夜、
岡山の表具屋さんに習いに通いました。ウチに表装専用の部屋を造って、やってます。
永年勤めた井笠鉄道を退職したとき、実は福山に表具店を出そうと、
真剣に考えたほど」とおっしゃるから、プロフェッショナルの領域である。
井笠時代は、管理職の傍らコンピューター・ソフトのプログラマーを勤めたとか。
早期退職して表具店を、と考えた時、ワコー電機から「5年間だけ」の約束で、同社へ。
ここの海外ネットワーク・ソフトを完成させ、58歳で完全退職されたとか。
同氏はなんと、20代後半には既に、教積院の責任役員を勤めていらっしゃったという。
まさに地域のスーパー・マンなのである。
旧坪生小学校校舎の放置ゴミ撤去作業は、3年に亘る組織的ボランティア活動によって、
やり遂げた。
それは同時に、校舎全体の解体・撤去の段取りとなり、専門業者による6ヵ月の作業で、
全くの更地となって、現在に至っている。
その過程で、「せめて階段部分だけでも残してほしい」との、研究会有志の要望で、
二階への階段一対は、焼却をまぬかれた。
仮置き場に移転後、水洗い・防虫液塗布注入・樹脂コート塗布など、
共同作業(計26人)後、組み立てについては、巧建設に依頼した。
当初は、(1)現在の坪生小学校に展示(2)できれば、展望台として遊具に利用できないか―など、
校長先生と話し合った。その結果、遊具としては、市教委の許可が到底おりないことがわかり、
「郷土資料室での永久保存」を主張された。しかしこれも、
現校舎の階段サイズを上回る旧階段を、搬入する法を編み出せず、断念(10//23幹事会)。
「いっそ展望台として上土居山頂上へ」に、協議一致、組み立て作業を待った。
直前まで「上土居山頂上設置」を目指したが、
超重量級の構造物となった展望台の運び上げの不可能を認識、急遽、旧坪生小学校の校庭へ、
に落ち着いた。
12月18日、今や35名という、強力メンバーになった土曜会会員中心に、
30人近くの共同作業で、遂に立ち上げを完了した。
2月5日には、この展望台に、アルミパイプとトタンで制作した、古風な屋根が取り付けられた。
土曜会会員・小森皓秀さん入魂の作である。同時に、防腐にと、クレオソートの塗布も済ませた。
遠景として、見ごたえのある屋根付展望台である。
小森さんは、その直後から入院。5月19日、家族に看まもられながら他界された。
享年70歳。哀悼、合掌。
『坪生体協だより』平成17年7月10日号は、『坪生ファイターズ快挙!おめでとう』
との見出しで、少年野球『坪生ファイターズ』(小野喜義監督、石田昌利・神原弘幸コーチ)が、
県大会で初優勝、徳島県で開かれる全国大会へ出場するという快挙を伝えてくれた。
同チームは、部員25名。なんと女子選手が3人も居るという。日常の練習は、
天満屋酒店(桑田宗義氏)が無料提供する、鶴ヶ丘のグランド。
このチームで、4番キャッチャーで頑張っていたのが、東池平の金尾元樹くん。
弟2人も同じチームに属する、少年野球一家である。元樹くんは今春東朋中学に進学。
軟式少年野球クラブチーム『東朋ライオンズ』に入団、主たる練習場も皿山グランドと遠いが、
週3回、自転車で通い、正捕手の座を目指している。
このところ耕地面積が減ってきたとはいえ、坪生の地は、
六月に入るとにわかに活況を呈してくる。田が鋤かれ、代掻きの準備が整っていく。
池の水が抜かれる前段作業として、池掛りによる水路の溝掃除も、怠りない。
5月28日の日曜日は、坪生で最も広い耕作面積に水を潤す『川原山池』掛りの溝掃除が、
一斉に行なわれた。東池平地区の皆さんもこの日、15人が出て、溝掃除に励んでいた。
午前九時半頃、金尾憲治さんが素っ頓狂な声を上げた。神森さんの西側、
瀬戸の深い溝でである。30cmもあろうか、家庭用のポット位の丸々と太った大ナマズの出現に、
大騒ぎになった。
川原山池から流されてきたのか、瀬戸の地で育ったのか。居合わせた掛谷常雄さんは、
「竹田川には、ナマズが居るとは聞いとったが、この地では、初めて。
味見をしようという申し出もなく、お腹に子どもが居るようでもあり、逃がしてやった」と、
なかなか粋な計らいを、披露してくれた。
「ワタシが三年生の頃、瀬戸の川にはサンショウウオが居って、
観察に連れて行ってもろたんよ」と、昭和15年生まれの、坪生小卒業生もこの話を聞いて、
感慨深げ。
カエルの合唱が、一斉に響きだす日も近い。モロコもドジョウもメダカさんも、
少しずつ蘇えりつつある、坪生の地である。
二月末のある日、惣津章雄会員(陶山公民館長)にお願いして、
『くに境(県境)の道』を案内していただいた。有志4人が、前日夜に急に頼み込んでの、
臨地研修である。
東光園の西側を、中山の墓地方向へ50m程入ると、笠岡市有田方面への分かれ道に出会う。
ここから先は、われわれはガイドしたことはない。惣津氏の案内で、この日は安心して進む。
思ったより広い道を、50m程歩くと、なだらかな山の斜面に突如、山畠が展開する。
開墾中という雰囲気で、よく手が入った感じである。
そこから先が、竹やぶになり、よく踏み固められた道には落葉が深々と積もり、
両側から押し迫る竹やぶのトンネルの道が、200mも続く。
トンネルを抜けるとパッと開けた景観となり、農作業小屋、民家がちらほら。少し先に、
有田の集会所が見える。笠岡の海に向かう、これぞ古道石州往来である。
何百年、と言ってもいいだろう。姿を変えないで、知る人ぞ知る、
用のある人だけが利用してきた古道。なんというゼイタク!を実感した。
平成17年12月26日の中国新聞は、一面トップで、前日京都で行なわれた全国高校駅伝を伝え、
『興譲館女子、初V』の大見出しで、右手を高々と上げたアンカー高島選手のゴール写真を掲載した。
脇見出しでは、『男子は、世羅が21年ぶりに2位』としていた。
興譲館は、前年の平成16年、創部6年目で準優勝という、快挙を成し遂げたばかり。
同校の監督森政芳寿先生は、神辺町在住。新市中央中学校を、
全国中学駅伝出場に導くなどの実績を積んだあと、平成11年、興譲館に創部と同時に招かれ、
指導を始めた。
そう、あの時森政先生は、全国中学駅伝大会に出場した東朋中学のメンバー5人全員を引き連れて、
興譲館女子駅伝部を創部、いきなり全国大会に初出場、35位。以後、15位、11位、12位、7位、
準優勝、優勝と、着実な歩みを見せてくださったのである。創部の時、坪生学区出身では、
猪原由紀さん・田上陽子さん・服部雅子さんがいらっしゃったが、今どうされているかな。