坪生の地から、初の女子東大生

 H22・春、坪生の地から、初の女子東大生が誕生した。
 坪生町井ノ木の、川高逸弥・茂子さんご夫妻の長女麻美さんである。 麻美さんは、中学から広大付属福山へ通学していたが、今春、みごと現役で東京大学文一類に合格。 現在、三鷹市にある寄宿舎に入寮して、電車で30分程の目黒区駒場の教養学部校舎に通っている。
 赤門で知られる本郷の校舎には、3、4年生からの通学となる。
 火曜会と土曜会の完全統合が成った『つぱう郷土史研究会』の、5月例会で取り上げたのが偶然、 東京都文京区立誠之小学校。東大の本郷台地の隣に位置し、備後福山藩の藩校『誠之館』を、 基金をつけてそっくり地元に寄付をしてできたことから、『誠之(せいし)小学校』と名乗っている。
 この丸山台地は、かつて「丸山福山町」と呼ぱれ、約6万坪。現在は、 「西片1・2丁目」と呼ばれる超高級住宅地である。台地の南端には、阿部家現当主の邸宅、 少し上がった所には、福山出身で在京の大学に通う学生の為の、『誠之舎』が現存する。 12年前、郷土史研究会で、誠之舎、誠之小学校を訪ねた時は、東大は赤門止まりで遠慮した。
 麻美さんのガイドで、本郷校舎のうんと内側まで入り込める、チャンス到来である。

よくぞ名付けたり、『坪生遺産』

 昭和22年春、卒業した坪生小六年生が、総合学習の総集編として、ガイドブック『坪生遺産』を、 発刊した。A4版全19ページで、驚くべきは、表紙から最後のページまで、半分は活字の解説文、 半分は自分達で描いたカラー・イラストと手書きの文字で構成されていること。 配色の妙が、素晴らしい。高くついたが、月例会での配布資料としても、つい、 カラーコピーをしてしまった。
 「このガイドブックを見ると、坪生の史跡に行ってみたくなるように、 このガイドブックを持っていくと役に立つように、 郷土史研究会の方々の協力をいただきながら作成しました。また、 坪生にある史跡のことを伝えていきたいという思いを大切にし、作成しました」とは、 誠にもって行き届いた巻頭言である。

『満月と太陽』をいっぺんに 拝めた元旦

 「平成22年元旦。西楽寺の鐘が鳴る少し前、上土居山頂上の少し西寄りに、 まん丸満月が輝いていました」(渡邊了介会員の話)。
 『月と季節の暦』(月と太陽の暦の制作室=東京都台東区駒形)によると、 1月1日(金)は、「旧暦11月17日。望・立待月」とあり、十五夜の満月からは2日後であるが、 まさに望月。
 初日の出を拝もうと、上土居山に登っていた約100人も、初日の出前の歓声をあげて、 間もなく沈んでいった満月に、見入っていた。
 因みに、月暦による正月(睦月)一日は、新暦の2月14日(日)であった。 月歴一日は、もちろん朔日(ついたち)。お月様は、まっ黒。それから日々、 成長していくわけである。

井ノ木の天神さん一帯が、公園化!

 坪生の東端、井ノ木の天神さんは、神森神社の秋季大祭のお旅所 (神森神社を出立した神輿が、昼食休憩をするところ)として知られているが、一昨年秋の大祭以降、 この一帯が生まれ変わりつつある。
 すぐ近くにお住まいの、金尾勇一さん(屋号:神納寺)が、ほぼ一年かけて、 雑木伐採・盛り土・石組み造園・遊歩道の設置等を、労力提供ばかりか、材料費もすべて自費提供で、 完遂されたのである。
 天神さまの氏子は、井ノ木、仁井、中山の3地区で維持管理しているが、神社境内は永年、 雑木伐採・盛り土などの整備はしたこともなく、神輿が休む広場も、相当狭くなっていた。
 この1年間の後半は、氏子有志も手伝い、梅・桜・山茶花・ツツジ、楓などを植樹したが、 公園化に尽力された金尾さんの功績を称え、総代会の名において、 天神社に感謝の木札を掲示したという。
(この項、纉c忠典氏よりの話題提供)

あの『愛輝ゆま』さん、宝塚を退団

 坪生初のタカラジェンヌ、橋本真由さんこと『愛輝ゆま』さんが、昨年、退団されていた。 最近事情を、とお尋ねすると…
 「昨年の東京千秋楽で、退団しました。同期生40人が、花・月・星・雪・宙(そら)の5組に配属され、 うちの子は雪組でした。研究科5年生の時、ベルサイユのバラで黒天使の役をやらせていただき、 満足してます。16歳で入って、いま25歳。そのまま宝塚で、受験スクールに頼まれて、 クラシックバレーなどを教えてます。福山には、なかなか居場所が見つかりませんので、 当分は帰ってこないでしょう。音楽学校2年間のあと、研究科7年生でしたから、9年間、 よう頑張ってくれました。」と、ホッとした口調の母親橋本清美さん。
 超プロ社会での芸能生活は、想像もつかない厳しいものだったに違いない。ほんとに、 お疲れ様でした。

わが研究会会員が、4年連続の善行市民賞受賞

 村上カヨ基金による善行市民せんだん賞は、この4年間、わが郷土史研究会会員が受賞している。 H18二瓶康男さん、H19掛谷常雄さん、H20藤川文己さん、そして昨年が、 われらが新会長纉c定さんである。
 同氏は、30歳代から地区の農区長はじめ福山市農業委員、また町内会長10年間、平成18年からは、 町内会連合会の副会長をお務めなど、通算28年に及ぶ地域貢献が、 絶大なる評価を得ていらっしゃるのである。

福山競馬のイメージキャラ 遅すぎたか、フッキーくん

 H22・5/12付け中国新聞は、福山市が福山競馬PRのため公募していた『フッキーくん』を、 紹介していた。今年に入って、にわかに「存続か、廃止か」など、赤字を理由に、 お荷物扱いしだした様子の福山市。「本気かいな」と、揶揄したくなる。
 なんの番組だったか、1/21のテレビで競馬場に働く人たちのことを取り上げていた。
 馬(福山の場合、650頭)のほか、騎手、調教師、馬主、馬蹄師、スターター、場内アナウンサー、 実況アナウンサー、受付嬢、場内馬券売り場、予想屋、そしてファン…を挙げていた。
 そう言えば、H8・3/18、つぼう郷土史研究会日帰り研修で、『福山を支える諸施設』をテーマに、 箕沖の廃棄物処理場、福山競馬場、道三川を訪ねた。その際の道中コメントに、 「650頭のおウマさんの幸せを願い、会費の中から馬券も実際に買ってみた。大型動物の迫力と、 人間に寄り添う愛らしさが、おウマにはある」と記している。
 戦災復興事業として始められた福山競馬である。農耕民族の日本にとって、 あまり馴染みがなかったものの、戦後復興には、確実に役割を果たした競馬である。浅田次郎は、 作品『サイマー』の中で、競馬文化について触れ、「フランスのパリには、信じられないだろうが、 12の競馬場がある。文化の違いと言えばそれまでだが、 ウマと人間がさほどに混在しているのだ」と断言している。
 戦災復興の落とし子の競馬場、戦後民主化の過程で壊し損なった福山城、 江戸時代の街並みから文明開化し損なった鞆の浦。今やこれらは、貴重な、あまりに貴重な、 文化遺産ではないか。他の町村には、ゼッタイ真似ができない、タカラモノと言えるのではないか。

新公民館、快適にスタート!

 新年早々から、急ピッチで進められていた新公民館が、見事に完成した。正面玄関前から眺めると、 縦長寄せ棟三重層。なにしろ1億2千万円の事業である。
 広い玄関ホール。総ガラスで明るい事務所。2階にトイレがあるではないか。しかも図書室も。 多少の問題もある。駐車場が、いかにも中途半端。近接地への増設は、急務である。事務所も、 なんとなく窮屈。落成記念誌『まぐら』によると、坪生公民館を拠点に活動するサークルは、30に達する。まさに、百花繚乱なのである。
 正面玄関のドア左側の、いわゆる門札は、掛谷常雄さんの作品。「持っていた肥え松を材に、 知り合いの書家に書いてもらい、三日間で彫りあげました。あと、ウルシを塗ってます」と、 こともなげにおっしゃるが、なかなか見応えある作品である。

坪生学区体協が、驚異の10連覇!

 福山市内79学区が競う『福山市総合体育大会』は、バレーボール、ソフトボール、硬式卓球、 軟式野球、水泳、バドミントン6種目を対象に、優勝10点、準優勝7点、3位5点など加点法で、 年度内成績をトータルするのである。
 坪生学区体育会会長の澤田修次さんに話を聞いた。
 「全種目強いのが坪生ですが、水泳は、なかでも抜群。大会の時は、小学生、一般、 100名位が出場し、大騒ぎして盛り上げています。私は、富山県高岡市出身。 NKKで福山に来て40年になります。私は柔道出身ですが、体協役員としては、事務局時代からだと、 20年目になります。坪生の人たちは、外来者を優しく受け入れてくださり、居心地が良いところです。 それが絆(きずな)となり、団結に繋がっているのかな。水泳では、70代、 80代の指導者もいますよ」と。
 6/26、ニューキャッスル・ホテルでの、福山市体協総会での、『10連覇達成表彰授与式』に、 もちろん晴れて出席である。

二瓶さんは、永遠に!

 二瓶さんの遺影の前で、オイオイ泣いてしまい、読経が不能という事態は、思いもしなかったこと、 かつてない体験である。
 あの元気者の二瓶さんが、亡くなったのである。進行を遅らせるしか手がないことは、 ご本人も自覚し、私達に懇切に話してくださっていた。2週間毎のお見舞いだけでなく、 「もっと寄り添えないか」と、最近手に入れた内藤いづみさん(ホスピス医)の講演録を聴きながら、 模索していた矢先である。
 あまりといえばあまりもの、突然のガン宣告と、短期間闘病の末での死。二瓶さんは、鉄鋼魂、 或いは会津士魂を、そのまま人柄にした姿で、私達の前に現われ、実に誠実に、 地道に足を運ぶことを惜しまず、尽くし示してくださった。奥様洋子さんの話では、 「西楽寺さんに出会って、ボクの人生は変わった」と、おっしゃっていたそうだが、身に余るが、 私にも同じことが言える。全てのことに報告書をいただき、誠心誠意とはこういう生き方かを、 見せていただいた。
 二瓶さんは一時、西楽寺檀家になりたいと申し出られた。その後、 家族の同意が得られないと辞退された。今回、二瓶さんを送る読経は、声にならなかった。 導師を任されずに済んで、ホッとした。 その後、二七日に一人でお参りした時は、 オイオイと泣いてしまったと言う次第。なぜなんだろう。僧籍を得て33年。初めての心境である。