「わら文化の復権」を唱えている人がいる。
遠くでは、千葉大学の宮崎清・助教授である。この先生、『藁(わら)T、U』
(法政大学出版)という本を出し、自らもスリッパ、円座、ほうきなどを作り、
専ら藁を愛用しているとか。
私たちの身近かにも、実は わら学者≠ェ居た。坪生町狐原の神原豊さん(59)が、その人。
昨年秋、民具調査でお訪ねした。キチンと整理された納屋の中に、縄やむしろ、はいどら、
米俵、わらじ、それに各種の天びん棒や竹ぼうきなどがずらりと並び、
そのいずれもが自らの作と聞いて、感嘆の声をあげたものである。
早速、主だった製品を選び、坪生小学校に開設した郷土資料室への出展をお願いしたが、
その後、同氏から出展品の一部を、研究会へ寄贈するとのうれしい申し出があった。
聞けば、私たちより半年ほど早く、民俗学者の神田三亀男さんがわざわざ広島から
訪ねてみえたとか。知る人ぞ知る、である。身近かなところに、コツコツと文化を伝承し、
生活の中に組み込んでいる、地味で貴重な人材を発見したことが、何ともうれしい。
薄氷が表面にはりつくような、きびしい寒さの昨年暮れの滑池に、異変が起こった。
樋の改修工事のためポンプで水抜きが行なわれた。僅かに残った水面に、
一メートルを越すかと思われる巨魚の背びれがユラユラ。数えて八尾、
いずれも中国原産の養殖魚「草魚」だった。
池ざらえは、魚の捕獲とへどろの掃除を兼ね、戦前は年中行事の一つだった。
滑池の池ざらえも三十五年ぶりのことで、さぞや魚もびっくりしたことだろう。
なおこの時期、同池の堤防に設置していた「平安時代の窯跡」の説明板の文字部分が、
断片的にはがされていた。夏を過ぎたあたりから、表面が浮いてきたので補修を、
と話し合っていた矢先のことである。
窯跡と推定される滑池周辺地は、すでに住宅造成の認可もおり、
いつでも着手という段階と聞く。鎌山の地とあわせ、蛇のはい出る前の踏査が急がれる。
東池平の掛谷時夫さん方裏の竹やぶの中に、なかば埋もれていた石塔がよみがえった。
「唐人墓」と言い伝えられたもので、「坪生村史」(昭和33年刊)
「坪生村郷土史」(昭和2年刊)にも「唐人墓」、として一頁を設けて記述されている。
『鎌倉様式、どうみても室町末期以前のもの』と村史は言い、郷土史の方は、
加藤清正の朝鮮進攻と関連づけるなど、時代背景にかなり開きがある。それと、
日本文化の先輩とも言うべき朝鮮民族に対する蔑視的記述という点に鑑み、
パンフレット「坪生たずね歩き」でもあえて触れないできた。
一月二日、第二回目の、旧村境を歩く≠ノ際し寄った折り、
竹やぶの中で半ば埋もれた石塔を探しあて、あまりの荒廃に胸を痛めた会員により、
土地所有者の了承を得て、石塔及び囲いのレンガ仕切りを掘り出した。
異国の地に眠るいにしえの魂よ、安らかなれ、の想いをこめて……。
大谷入り口付近にあった古墳の石を、持っていっとるんじゃ」
わしゃあ、馬鞍山の古墳の石じゃと聞いとる」
番の池の堤防及びその上を流れていた水路は、このたびの山陽自動車道建設工事に伴い、
その姿を消した。堤防下を流れていた水路の一部に使われていたというのが、冒頭の石である。
どの石とどの石がとは、確定しようもないが、それとおぼしき大きな石数個が、
とりあえず工事の邪魔にならない近くの空き地に移された。
日本史の中で、四世紀の半ばに強大な権力の象徴として現われ、
六世紀の仏教伝来とともに消えたのが古墳といわれている。
こうした本格的な(前方後円墳といった)古墳ではないにしても、
豪族の石棺に使われた石かも知れない。工事関係者も、そのただならぬ言い伝えを聞いて、
丁寧に扱ってくれたのであろう。
今後の落ち着き先は、まだ決まっていない。
第二回『旧村境を歩く』は、昨年どおりの一月二日、十一人が参加して行なわれた。
コースは坪生の西半分。ヤケザヤ発、鶴ケ丘−葉座−別所−西池−東池。
そして公民館でカンパイ、となった。
鶴ケ丘周辺では、すっかり道筋も変わり宅地化した今昔の対比を、
そして西池から東池への山道では、荒れるにまかせた山の現状を目のあたりにした。
とくに東池の尾根道では、下り道で迷ったり、うず高く積もった枯れ葉に足をすべらせて
坂道をころげ落ちたり、ちょっとスリリングな場面もあった。
これで全周したわけだが、来年はもう少し早目に計画を練り、場所設定、
馳走の用意などに工夫を、との声が強かった。
くつろいで眺望の楽しめる所は、山に囲まれた坪生の里に、案外少ないのである。
▲坪生の地で焼かれた瓦が、平安京に運ばれて使われていた ―
三月二十八日、坪生を訪れた奈良国立文化財研究所の上原真人技官により確認された。
案内は、岡山県古代吉備文化財センターの文化財保護主任・福田正継さん。
上原技官来訪のきっかけを作ってくれたのは、実はこの人の感動≠ノよる。
新たな瓦(35cm×23cmの平瓦)の発見 ― 草戸千軒遺跡調査研究所へ ―
福田さんと国立福井工専の 荻野繁春助教授の来坪 ― そして奈良からわざわざ。
この間わずか十日間である。感動の伝達のすばらしさ、とか言いようがない。
畑の土を15cmほどどけると、真っ黒な焼け土が現れ、千年の昔に焼かれた瓦、
土器片がびっしり折り重なっている。さらに浅いところでは、耕うん機にひっかけられ、
近くの竹やぶに捨てられた破片は数知れない。
どのくらいの規模の窯跡が埋まっているのか(二十八日、現地を訪れた両氏の話では、
神原軒三さん、掛谷吉治さん所有地の畑に、少なくとも数基埋まっている筈、とか)、
どんな人が当時の一級品を生産し、どのルートを通して京へ運んだのか、夢は現実味を帯び、
次次に広がっていく。
折りも折り、研究会集中研修で四月九日から三日間、奈良・斑鳩・明日香を訪れる。
「平安京跡の案内は任せて下さい」と上原技官。古代王朝の国づくりと覇権争いを現地に学ぶ
― 古代への関心が、みごとな線でつながった。