仁井山城跡(にいさんじょうあと)と伝・仁井氏古墓
鎌倉幕府が倒れた(1333)あと、建武の中興がわずか二年半で崩壊、
世は足利尊氏8あしかがたかうじ)の勢力とこれに反対する勢力の対立の時代にはいる(南北朝時代)。
古記録では、このころ坪生荘は反足利尊氏の勢力下にあり、
隣の竹田庄の鼓覚弁(つつみかくべん)勢力と対立していた。
『覚弁、坪生荘の攻略をはかる。坪生・仁井山城には城主以下50名がたてこもりよく守るが、
2回目の戦闘で遂に落城、城主自刃す』と記す。
この時の城主に「神原氏」、あるいは「仁井氏」「坪生氏」など記録はまちまちだが、
山城跡山すそに『大名墓(だいみょうはか)』と伝える石塔、
西向かい山すそに小五輪塔がずらりと並び、文化庁の全国遺跡地図には、
『仁井氏古墓』と記されている。
山城跡一帯は、今は雑木林にさえぎられ、石組みなど形跡も見当たらない。
発掘調査が待たれる。