江戸時代・庄屋屋敷跡
当家は屋号を「田口」といい、江戸時代末期の文政7年(1824)から明治維新までの44年間、
3代続け庄屋をつとめた。
古文書からも、文治郎―猪平治―猪惣次の名が見られる。
明治元年には、父猪惣次の跡を受けた桑田平右衛門は、
11才の少年ながら母の後見のもとに坪生村庄屋となり、明治5年、
庄屋から戸長に改められたさい辞任。のち公選制になった明治22年、
33才の若さで坪生村の初代村長に選任されている(「坪生村史」より)。
同家は江戸時代、藩主による領内巡見のさい、
休憩あるいは宿泊地点としてしばしば利用されている(「土屋家日記」)。
現在の母屋は昭和20年代に建て替えられたが、重厚な塀及び門長屋などから、往時がしのばれる。
鎌倉在住の当家11代目の桑田敏郎さんから、平成8年夏に、
「土蔵を整理したい。郷土史会で必要なものがあればどうぞ」とのお申し出があり、一斉搬出。
庄屋関連文書、なかでも多数の襖の下貼り文書(いずれも江戸時代末期のもの)が注目されている。
平成9年秋、土蔵部分がとうとう倒された。