県境(くにさかい)の道
この道は、江戸時代の国境(くにさかい)、現在の県境である。
江戸時代前半の水野藩時代(5代、80年間)は、
現在の笠岡市域と井原市域の一部も水野藩領であったが、元禄11年(1698)の水野氏断絶と共に、
再検地が行なわれ、備中28ヵ村(約5万石)は、すべて天領(幕府直轄地)となる。
すなわち、この街道、江戸時代前半は単なる村境だったが、後半は国境となった。
この位置から約1キロほど北に向かうと、『番所跡』の史跡表示があり、
人体改(にんていあらた)めのあった所。
福山は、水野氏断絶後、10年間の松平氏(出羽国山形藩)支配のあとを受けて、
大和郡山(こうりやま)から阿部正邦氏を迎え(正徳元年=1711)、
明治維新までの157年間(10代)が阿部藩時代となる。
福山市重要文化財に指定されている『土屋家日記』(蔵王町・土屋大作氏所蔵)には、
『殿様、領内御巡検…』として、お供を従えた阿部藩主が神辺街道から坪生に入り、
この街道を通って馬鞍山(まぐらやま)に達し、大門経由で帰城された様子が記述されている。
この時の、坪生での宿泊所が、幕末3代庄屋を勤めた仁井の田口屋(桑田敏郎氏=鎌倉市在住)。
この道、古い時代から、“石州往来”と呼ばれ、石州(島根県)と
瀬戸内・笠岡港を結ぶ幹線道路であった。
かつては、海の物・山の物が人の背に負われて行き交い、時には、
石州・大森銀山(幕府直轄)からの銀の運搬路にもなった。この街道は、
さしずめ歴史的産業道路といえる。
いま、県を隔てる道とはいえ、隣接する公民館活動の文化交流の道(コミュニティ・ロード)と言えよう。