新中(しんちゅう)八幡社
坪生荘(つぼうのしょう)と呼ばれた鎌倉時代から室町時代(1200〜1500年ごろ)にかけての総鎮守。
荘の範囲も、備中・有田村を中心とした地域と引野、能島、大門、津之下、
野々浜を含む13ヵ村と、広大であった。
室町後期(戦国時代)の坪生荘の解体とともに、総鎮守も分裂。以後、
江戸野地区の氏神さまとして祀られている。
祭神は、神功(じんぐう)皇后と応神(おうじん)天皇の母子で、
鎌倉八幡宮より勧請したと伝えるが、本源は九州の宇佐八幡社。
「新中」の由来については、『鎮守のなまり』『坪生荘のまん中(真中)だったから』の両説がある。