『備後坪生荘』大塚館跡(つぼうのしょう おおつかやかたあと)推定地
坪生荘は、「平安時代末期の久安年中(1145〜1151)に成立し、京都・藤原氏の荘園地として経営された」と古記録に記し、中心地がこの辺と推定されている。
開発地主は坪生氏と伝えられるが、引きついだ陶山(すやま)氏のあとの在地支配者は、 転々としている。
標高およそ45メートルの小高い台地のこのあたりには、坪生荘の中心地としての荘家及び役所、
それに関連した建物があったと推定され、「土井」「土井前」「土井後」
の小字名が一帯に残っている。
坪生荘は、岡山県笠岡市の西部にまたがる13ケ村で構成されており、奈良時代から盛んであったことを示す「滑池窯跡」、平安時代に奈良・京の都に屋根瓦などを納入した原産地「鎌山遺跡」など、焼き物の特産品があったこと、或は、現在も坪生盆地を囲むように遺された40以上の溜池が示すように、極上の米作地であったことが、荘園として珍重されたのではないかと思われる。